映画の内容について
この映画は「潔白な白鳥と官能的な黒鳥の二つを演じることになったバレリーナが、プレッシャーによって徐々に精神を壊してゆくサスペンス」というのが一般的な見解である。
主人公のニナは従順で臆病であったのに黒鳥も演じるバレリーナに抜擢してほしいと願っていて、それが叶うのにプレッシャーで現実と妄想が混濁し、最後は死ぬように描かれている可哀想な女性に見えていたし、悲劇だと思っていた。映画の物語の解釈は、自分の世界観が表れます。その物語の作り方が「従順で臆病で」、表面的な人間観(プレッシャーに弱い人が可哀想な女として悲劇になる)に基づいていますね。もっと突っ込んだ(心理主義でない)物語を構成できるようになると、人間観が変わりますよ。「最後は死ぬ」とは、「誰」が死んだと解釈できますか?可哀想な女が死んだ、では、ここで描かれている世界を、捉え損ねていますね。
しかしディスカッションしていると本当にいろいろな感想が出てくる。母親がニナに絶大な期待を寄せているということは分かったのだが(ステージママぐらいの表現は理解しましょう)、母親が自分の自己実現を娘を通して計ろうとしているということまで考えられなかった。バレエをしていること自体が自分が好きでやっているわけではないので、抑圧だという意見も出ていた(好きでやっているわけでないことで、超一流の立場まで行くことを想像できてしまうのですか?)抑圧の意味が軽いですね。。しかしニナは母親や良い子の部分の白鳥から解放されたいと思っていたかどうかが少し疑問である(白鳥からの解放は、普通の良い娘にはないでしょう。)。母親が娘を通して自己実現しようとしている、ということにニナは気づいていない(普通の良い娘は気づかないでしょう)ので、嫌だとも思っていないように思った。バレエをやっていることが当たり前でそういう風に生きてきた。(普通の女の娘の小林が自己を投影した解釈ですね。)そしてトマに忠告???(「誘惑」がキーワードです)され、ブラック(スワン)の世界を見て行くが、ニナは自分の知らない世界(ブラックの世界)を知ってその世界に興味を抱いたというようにも取れないとわたしは思う。ニナはあくまで役になりきりたかった、だから最後「感じた」「完璧だった」と言ったのであって、誘惑する女になりたかったわけではなく、役としての誘惑する女になりたかったのだと思う。だからこそニナはブラックの世界に潰された・・・というようにわたしは考える。うーん、小林の世界観ですね。あくまでも自分は白鳥の立場であり、ブラックは役の上だけで、だから私は現実界では常に「白」の側の人であり、ほんとうの自分は「ブラック」などではなく、白の正しい私は、自分でない「黒」に潰されるかもしれないのであり、その潰された良い娘は可哀想な悲劇のヒロインなのですね。良い娘は、世間の「黒」に染まらない人間として、自己認識していますね。良い娘は自分の中から「黒」を排除して、自己提示します おそらくわたしがみんなに言いたかったのは、「ブラックスワン」になることがどういうことなのか、ということ。それは昨日ディスカッションでも出ていた「性的な女性になること」なのだが・・・椎野先生が話してはじめて自分の問題提起したかったことが言語になったと思った。その性的な女性になることになんだか違和感があった、女性の魅力は性的な魅力それがすべてだ、とこの映画は言っているように思えたのである。そしてわたしのこの意見について批判して欲しかったのかも。「性的な女性」をまだ肯定できない良い娘の自分がいて、白の「性的な女性」を求めているようですね。ブラックスワンの「性的な女性」は、「黒」なので、違和感として排除して、白の女性の「性的な女性」を、なんとか肯定したい希望が表れていますね。でも、良い娘の自分にとって、「性的な女性」の部分は、白でなけれなならず、「黒」を自分の中に認められないようですね。自分の中の「黒」を認められるようになると、人間観/世界観が変わりますが、「良い娘」ではなくなります。このことが恐怖なのでしょうね。
発表者としての感想
先輩と一緒にやっているときには「発表者が最後に締めの言葉を」なんて無かった気がするのにな、と振り返る。先輩たちがいたときはひとりひとりが発言して、ディスカッションして、それで終わっていたような気がする。いや、最後の一ことはあったとおもいますが。だから昨日は戸惑ってしまったのだと思う。でも去年と今年とでは人数も違うし、そもそも椎野ゼミでの映画発表はこういう形が本来の形式なのかも?とも思った。
昨日の(プレゼンと言えるかも不安な)プレゼンに対しての指摘は、わたしの卒論にも必要なことで、社会に出ても必要なことだと思う。言われたんじゃなくて(怒られたと思うんじゃなくて)、言ってもらった・言ってくれた、という風に解釈してもいいのかもと思った。発表は、自己認識を深めるプロセスなのです。自分が変わらない発表なんて、自己認識に興味がないのでしょうね。
当事者意識がかけていたかも、と思う。先生に言われたからやっている、というような意識だったかも。問題提起をしているのは、みんなで話し合いたいと思っているは自分なのだから、と考えると責任感が出てきた。話し合いは自己解放なのです。