椎野ゼミ課題
レオニー
2014年11月7日
チョウ ロセン
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今まで国語の作文の影響(で)もあり、『レオニー』という映画のメインテーマが少し見えないような気がする。波乱万丈の人生ドラマを描くときに、(何を)重点として出したいものを一番時間をか(かっ)けて描写すると思う(たとえば、ヨネに捨てられた苦しみや、日本にいるときの辛さや、息子の教育への心がけなど)。よって、この映画のメインテーマが少し分からないと感じた。この映画の試みは、女性を個々のエピソードに分割して表現するのではなく、一人の人して「女の一生」を描くことにあるのです。女性の表現は分断されがちであり、特に今回のように男の有名人(オサム・ノグチ)の生涯はよく描かれるのだが、そのそばにいる女性は、その男の脇役としか描かれないのが常なのに対して、「女の人生」を描くことなのです。この試みが果たしてうまくいったかどうかは、皆さんが見てのとおりなのですが、その他の要因としてメインテーマとして「女の一生」というテーマ設定が、見る側に無いケースが多いので、このテーマは予め成功しないようになってしまっているのかもしれないのです。
ストーリーの構成を除き、私は主人公のレオニーという女性を尊敬している。はい。20世紀初頭、レディーファーストのアメリカでも、高等教育を受けた女性や、働いている女性も少ないだろう。良い大学に入っても、友達のキャサリンのように結婚し、ずっと家にいる女性がほとんどだと思うはい。。このような時代背景でありながら、レオニーが留学し、鋭い意見を言い(出し)、個性がある女性として生きていた。しかし、どのような時代の、最先端(に)を歩いている女性でも、愛する人に捨てられたときの辛さと、結婚してないのに妊娠を決めた母性については(も)、普通の女性と違わない。?(この「普通の女性」観は、どのように形成されたのかを探究してもよいのですよ。)(これが女性とはこうゆうものだという本質主義の女性観なのです。)ただし、この時代の日本とアメリカの事情をよく知らない(はい、理解しましょう)ため、たとえば、なぜウメさんの女子学校に外国人女性教師が受け入れられないのか(こと)が分からない。(外国人女性教師だから雇わなかったのではなく、「ニューウーマン」レオニーの生き方が余りにもラディカル過ぎて、保守的な家庭出の女子学生には刺激が多すぎたからなのです。)もし理由は当時有名な作家野口との関係で、みんなが知(ってい)ることになったら、なぜか野口の出世に影響が出(て)ないことはないからだろう。(もうすでに野口は出世しているのです。)家庭への影響もなさそう(意味不明)で、この後で、悠々と「お前を大事にするべきだ」という話ができるのか(意味不明)。ただ当時は男尊女卑の世間だからという解釈が不完全なような気がする。何について解釈しているのか?
今回監督さんの話を聞き、日本の映画制作の事情が少し分かった。上映終了の反省会で井上さんの話で松井さんが製作した映画は全て監督さん自身が自分がやりたいものだったことに気づき、(自分がやりたいことをやっている女性を実際にみることは重要です。)ゼミで聞いた日本映画業界の話を思い出した。今日本の映画はほぼテレビ会社や、有名な映画会社が作ったものである。はいよく考えたら、大ヒットドラマの作品がそのまま映画にするものも少なくない。もちろん、アニメもそうだし、ジブリの作品以外のものがほぼテレビアニメが放送され、ヒットが出たら、映画にするような流れである。このような環境で、自分が作りたいものが作れること自体が幸せだと思う。「幸せ」は自分でつかみに行くものなのです。