わりと初めの方のシーンでフィリッポが自宅前?に置いてあったバイクを伯父さんからもらっていたが、そこがよく理解できなかった。そもそも伯父さんの所有物でもないのに伯父さんが勝手に「お前のもんだ」的なことを言っているし、それをフィリッポが本気で受け止めて自分の所有物にしてしまうなんて、理解できなかった。バイクは、叔父から甥へのプレゼントなのです。しかしイタリアの人々は置いていく方が悪いという考えなのかもしれない。電車で寝ることに危機感を抱かないのと同じようなことなのだろうかちょっと違います。。
この映画ではイタリアに流れ込んでくるソマリアなどアフリカからの難民が描かれていたと思う。その難民で描かれていた女性が(5年前に夫と最後に会ったので)おそらく息子とは違う父親の子どもを妊娠していたと思う。はい。それはおそらくイタリアに来るまでに何かあったのだ、と思う。収容所で夜に警官が来た時に襲われてしまったか、(というようなことを述べていました。)てくてく国を歩いている途中で襲われてしまったか。そう想像すると、自国でもいい環境ではなくて、道中もいい環境ではなくて、イタリアに到着しても放任のイタリア政策でいい環境ではないのだなと思う。はい、「女は三界に家無し」の状態ですね。
海の掟と国(大陸、陸)の法律とで対立があったが、海の掟は私の中では人情とか義理という認識になり、国の法律が現実を見た(的)対応という認識になる。さらには古い考え(海)と新しい考え(国(ヨーロッパ大陸))になる。わたしは見殺しにした方がいいとは思わないが、助けて、それを隠すんじゃなくて(旅客船舶業者証みたいなものも持ってないのだからその隠していることも、難民を隠していることがバレたら一緒に明るみに出るリスクが高いのだから)すぐに警察に相談するとかっていう(助けること自体が法律違反の行為なのです。)もうすこし後先を考えての行動が必要だったんじゃないのかな、と思う。(十分、後先のことを考えた行動だったのです。)学歴はないが、庶民の知恵だったのです。
現実と理想のジレンマの中で人々がどう感じ、どう動くのか、しかもその人が何歳でどの世代を生きて、どんな人とかかわってきてそう思うようになったのか、考えさせられた。だからこそ、フィリッポの母は、息子に島を出て、島の外の世界に行って欲しかったのです。こうしたテーマは、イタリアのネオリアリズモの映画の真骨頂なのです。