シネコン(ハリウッドの劇)映画みたいに製作がしっかり?しているなと思った。キャストや音楽、美術スタッフも豪華だったと監督が言っていたのが分かった。
そして中村獅童の英語力が・・・発音が悪いのか何なのか、とても気になった(いちおう英語コーチにはついていたようですが。)。知的に演じることができなかったという監督の意見だが、やはりわたしは英語の発音が悪いのが大部分を占めているように思える(non-nativeの英語の発音とはなにかという問題がありますが。)。中村獅童が気持ち悪い。表情も、レオニーを説得するときも、振る舞いも、ねっとりしている感じがして。そんな役を演じているだけなのかもしれないが(はい、俳優は役柄を演技しているのです。)、その役を演じられるということは、少なからずそれを演じられるような経験をしていないと表現できないのではないかと思っているからだろう(俳優は、自分の経験したことのない役柄を演じるのがプロです。)、そんなことを思ってしまうのは。(演技としては、明治の文壇の名士の役柄を表現できていなかったのが、皆さんご指摘のように、欠点ですね。)
レオニーが妊娠したとヨネにいったときにすがる感じも好きじゃない。もうすこし相手の反応を考えるべきだと思う、レオニー自身の為にも。惚れ込んでしまってしょうがないのかもしれないけど正直こんな奴に恋するほうがいかがなものか、と。(他者からみて「こんな奴」と思うのが、当人の「恋愛」なのでしょう。「恋は盲目」「あばたもえくぼ」の表現どおりに。)日本で一緒に仕事をしようと言われて、来日したときも、まだ恋心を持っているということに違和感があった、というか疑問に思った。(100年前の「恋愛」は、時間が長いのです。)レオニーはヨネに依存していたのかなと思う。そうだとすると依存するって怖いことだと思う。人生を棒に振られる・・・(近代の「女の一生」の典型ですね。)まあ、レオニーの成長がこの映画のテーマでもあるのだろうが・・・。(日本の「女性」は成長するのだろうか?)
そういえば中村雅俊が演じていた茶道の先生役がレオニーにたいして「日本文化を喜んでお教えしますよ」といったのも気になった。もしかしてこの人が二人目の子供の父親では・・・?(真実は当人が言っていないので分かりません。いろいろ想像してください、それがあなたの人生観です。)
ヨネが詩人仲間?を家に呼んで話していたときも、レオニーは「わたしの編集者であることが大変に名誉だ」なんて言っていないのに、ヨネは勝手に訳していて・・・それをみているとあきれてしまう。(はい、翻訳にたよると事実とずれることがある例ですね。)自分の詩人としての成功の方が大切なのだろうな。(もちろんそうですね、それが明治の人です。)
「二件の家に通うのがめずらしくない」というのも衝撃だった。(まず30歳会社員男性の知り合いがいるが、「男性は生物学的に複数の女性と交わりたい願望がある」的なことを言っていた。(同様の体でいうならば、「女性にも、、、ある」が生物学的には全うな発想なのだが、男たちは、そこまで想像力がなく、自己正当化に始終しているだけですね。)それと似たようなものだ。(日本の古代の貴族階層の「通い婚」「妻問い婚」を明治の男たちが勝手に解釈して、「妻妾(さいしょう)制」を合理化し、「妾」めかけ(夫の次妻)をもつのは男の甲斐性とした戦前までの男の世界の論理ですね。)その男の論理に従うのが「女」であるとされて、「女」はそれに従ってきたのです。)
レオニーが二人目の赤ちゃんを抱いてヨネのところに原稿を渡しに行ったときも、自分のことを棚に上げてレオニーのことをよく「ふしだら」なんて言えるなと思った。(明治の性の二重規範の典型です。今も日本には沢山います。)やっぱり納得がいかないというか、どうして男性ばかりがそんなこと許されるのか、と思う。これが「男性社会」ということなのです。すがりつくのも女性ばかり。でも・・・ドラマや小説とかマスメディアの世界でまかり通っているってだけで、現実世界で捨てられているのは女性に限ったことではなくなっていると思う。(男性を捨てるということですか。学生時代の特権を一般化しないといいですね。)
学生時代のレオニーの「平凡な人間は退屈だ」という言葉はわりと好きだ。なにも疑問をもたない社会が平凡といえるのか、なにも疑問を持たない人生が平凡といえるのか、ある意味では幸せなのかもしれないけれど・・・。「幸せな」女性が日本には多いです。レオニーは当時の「ニューウーマン」の一人でした。
松井久子監督は講演のときに人生を語ってくれたな、と思う。監督が思ってきたこと、考えてきたこと、そしてアンテナの鋭さとか、行動力とか、映画作製の裏話、芸能界の人間関係など、魅力的な話ばかりだったと思う。はい、どう魅力的だったかも述べてください。