オキュパイラブを見て
オキュパイ・ウォールストリートの運動についてのドキュメンタリー映画である。この運動では、アメリカの金融資本主義のメッカであるNYマンハッタンのウォールスストリートを占拠し、そこで話し合いを参加者それぞれがしている。
映画の中でオキュパイ・ウォールストリート運動に参加している人々のことを日本人が観たときにどう映るのか。ただ勝手な意見を言い合っているだけだ、という風に観られてしまうのだと思う。しかしその話し合いをすることにより、結果としてある種のまとまりとなる。結論へ誘導していくわけじゃなく、運動に集まった人々の意見を否定しないで、みんなで模索していくというような印象だった。いろんな人が勝手な意見をいっている映画だが、日本では勝手な意見はいえない。だからこの映画は日本人が観たときに「勝手なこと言ってるな」で終わってしまうのだろう。勝手な意見も言えない人々が、他人を、「勝手なことを言っている」だけだという構図は何を物語っているのだろうか?意見を言えない言わせない圧力が暗黙にかかっている中で、人々が暮らしている日本は、これからどこへ向かっていくのだろうか?
メディアに関して言えば、この映画で取り上げられた運動がNHKかなにかで報道されていて、そのときのわたしは9.11の飛行機の事件となにが関係あるのだろうと思っていた。でもそれぐらいの認識しかしていなくて、不思議には思っていたけど当時のわたしは特にキャッチしようとしていなかったのだと改めて思った。では当時、何をキャッチしようとしていたのですか?何をキャッチできて、何をキャッチできない「わたし」だったのですか?そして今の「わたし」は?
それと映画の中で「自然が破壊されることに涙が出る」といっている人がいて、わたしもそういえば涙することがあるなと思った。わたしは、海の波の動きや風に吹かれる草や葉っぱ、絶えずかわり続ける雲、空の青さなどに感動して涙することがある(、)。自然の破壊に涙することと、自然に涙することは、別のことですね。それを知り合いに話したことがあって、その人には「鈴奈ちゃんは感受性が豊かなんだね」と言われた。そのときわたしは「わたしって珍しいのかも」と思った。それで映画後のディスカッションの時にその話をしたら「自分が珍しいと認識してしまうけど、実は周りの感覚よりわたしのほうが感覚として正常なのかも知れない」と先生にいわれて、なんだかうれしかった。当時わたしはそう言われても、わたしは珍しいんだろうなとはおもったけども、自分を押しとどめるというか、これっていけないことなのかなとかは思わなかった。日本では「珍しい」がスティグマであり、排除の論理が作動する第1歩です。当人も自らこの第一歩に入っていきます。この感動してる自分が好きだし、感動することはすてきなことって思ってるから・・・。当人は自分の好きなことをしているだけだが、その周りでは、当人の気づかないところで、排除の論理によって、「外」に位置づけられているのです。
そしてこれもディスカッションで話したことになってしまうが、アルバイト先で環境系のゼミに所属している男子学生がいて、ある日その子に環境問題についてどう考えているのかと聞いてみたらあまり反応しなくて、確かにアルバイト先だし仕事に関係ないかもしれないけれど、アルバイト先の人間関係だからってこういう話をしないというのはなんだか違うような・・・というかもったいないような・・・と思っていて、昨日のアルバイトで再挑戦してみた!はい。オキュパイラブの映画の内容を宣伝も含め話してみたら、「持続可能な環境の為に、(切り詰めていくと)要は節電を徹底しないといけないってことでしょ」と返してきた。一つの「正解」を知っているので、それで思考停止。これが日本の人々の「知的」会話ですね。受験「勉強」観の弊害であり、デモクラシーへの道が遠いことの証左ですね。前回話したときよりもすこしは自分の考えを話してくれたのかもしれない、とは思う。だけど持続可能な社会とか環境にたいしての考えは、ん?・・・と疑問に思う返事だった。今度のゼミで続きを話したい。この映画で描いた運動に日本が遠いことの例示なのか、あるいはデモクラシーについての映画を見ることができない日本社会の例示なのか、この悲劇に気づいている人はどのくらいいるのだろうか。気づかないことが幸せとする日本の不幸について、考えてみましょう。あなたは「幸せ」になりたいですか?