井上さんの「資生堂の大掛かりな広告」という発言に驚嘆した。わたしはそういう考えを持っていなかった。あとで社会人10年の知り合いに聞いてみたところ、その人も「あの映画はTSUBAKIの宣伝そのものだよね」と言っていた。どうしてそういう考えが頭に浮かんでこなかったのかと考えてみたら、わたしは宣伝というよりも「女性の人生」が全面に押し出されているという認識をしていたんだなという考えに至った。(私が、日本映画は何故「女性」を描けないのか、(何を描いているのか)と問題提起したときに、気づいてほしかったことは、このことなのです。日本の映画/テレビ番組(マス/メディア)には、日本の企業社会のコマーシャリズムやコンシューマリズムの価値観(女性観)が濃厚に反映されています。この価値観にあった女性観しか、そこには登場していないのです。しかし多くのオーディアンスは、このことに気づくこともなく、そこにある女性観を「女性」だと思い込まされて、視聴しています。特に若い女性たちは。その一例が小林なのかなと思います。)
石井君のコメントを聞いても思った。凛の父親の厳格さは作り上げられたもので、だからこそ男はかわいそうだ、というものだ。父親たちの意思ではなくて政治的に、時代的に、作られたものということなんだなと思った。(戦前の「父親」だけでなく、戦後の核家族の「父親」たちも、これを踏襲しているのが、恐ろしい日本社会を作っています。その中で皆さんも生まれ、育てられ、これからそれを再生産しようとしています。)妊娠したときに責任をとるのが父親と一般に言われている、たしかそのことについても石井君は発言していたと思う。そこでわたしは思う。責任てどちらにもあるものじゃないかって。(「責任」っておかしな発想であることに気づきませんか?)男性に責任があるように思われるけれども、それが女性に責任がないということには繋がらないのかな、と。(この議論自体が何か変だと気づいてほしいのです。)(「妊娠の責任」の前に問うべきことが沢山あるのではないでしょうか。そのことは問われることがないままで、自明視されていますね。)男性の避妊を男性が当たり前だと考えた方がいいと思うし、女性の避妊方法も限られる。だからといって女性も避妊を男性に任せきりではいけないのではないか、とも思う。(そのまえに、なぜ、避妊うんぬんとなることを行うのかの、議論はないのでしょうか。それは当たり前なのでしょうか?なぜ、当たり前なのですか?)
わたしはこの映画はいちおう女性の生き方を一部示しているように思っている。(コンシューマリズム的企業の描く、予定調和的な女性観ですね。そんな生き方など現実には出来ないのに、できると幻想させるのです。)その中ですべて家族が関わっていたと思うが、どうして家族が素晴らしいというメッセージがこんなにも強いのか・・・(企業的予定調和的家族観にすぎません)。母親とか父親とか、兄弟姉妹って自分にとっては生まれたときからすぐ近くにいるから身近な存在ではあるのだけれども、だからといって仲がいいというわけではないような。生まれたときも選べるわけじゃないし、未成年のうちも自分では選べないのだと思うから、「家族」って自分で作っていく人間関係とは異なっているのだと思う。社会学的には、「家族」を定位家族(family of orientation)(生まれ育った家族)と生殖家族(family of procreation)(自分が作る家族)に分けていますが、(命名がよくなくリアリティが感じられませんが)、日本の若者は定位家族にがんじがらめになっていて、自分の生殖家族観を構成できません。天皇家を抱えている国家(日本のこと)では、自分たちでかってに「家族」を作ってはいけないのです。そしてその家族は、素晴らしいものでなければいけないのです。
それと・・・家族製造幸福マシーンとは、母親のことだったのだろうか?母としての女のことですね。そこにしか近代「女」の機能を見ていない女性観で、多くの近代「女性」たちもそのイデオロギーを再生産することに幸せを感じています。