真夜中ドラマ「名建築で昼食を」第8話 2020年10月3日土曜放送
〒195-0053 東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号
https://ja.wikipedia.org/wiki/武相荘
公式サイト:https://buaiso.com
旧白洲邸武相荘オープンにあたって
父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。
私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。
ふと気が付くと近隣は大きく様変りしていました。暗くなるまで遊んだ小川、真赤に夕焼けした空にたなびくけむり、あちこちに、ひっそりと咲いていた野花の数々など、すべて姿を消していました。また点在していた茅葺き屋根の家々もほとんどみることがなくなりました。同時に私の両親の様な人々も消え去っていきました。
ただそのものとして見ていた茅葺き屋根の家や両親の様な人々が既にあまり残っていないのではないかと思うようになりました。
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたび色々な方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープン(2001年10月)致しました。
牧山桂子
武相荘の散策路(武相荘について)
白洲次郎と白洲正子。2人が移り住み、形作り、生涯を通して愛した家「武相荘」
四季折々に目を喜ばせる花々〜今となってはめずらしい茅葺き屋根葺き替えの様子などご紹介。
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武相荘スケッチ(現在の施設とは異なる部分がございます)
兵庫生まれ。若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。
第二次世界大戦にあたっては、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂首相に請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」。高官にケンブリッジ仕込みの英語をほめられると、返す刀で「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ」とやりこめた。その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。日本国憲法の成立に深くかかわり、政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、いくつもの会社の経営に携わる。
晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めた。「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「まことにプリンシプル、プリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人。遺言は「葬式無用、戒名不用」。まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。
長身で端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし。 趣味は車と大工とゴルフ。そんな次郎を夫人・正子は「直情一徹の士(さむらい)」「乱世に生き甲斐を感じるような野人」 と評しています。「しょせん平和な世の中に通用する人間ではなかった」とも。
次郎は明治三十五年、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれました。大正十年、中学を卒(お)えた次郎はイギリスに渡り、 大正十二年にはケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、生涯の友ロバート C. ビンと出会います。
ストラッフォード伯爵家の御曹子。車好き、英語でいう「オイリー・ボーイ」で、次郎の車熱に拍車がかかりました。 ベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中。ロバートとベントレーで長い旅行にも出ました。一方、 寄宿舎では英国流の紳士道を徹底的にたたきこまれます。
昭和三年、家業が倒産したため帰国。翌年、正子と結婚します。倒産の影響で、次郎の肩には十人以上の家族の生活が かかっていました。にもかかわらず、英字新聞の記者、英国商社、それから日本の貿易会社と、職業は安定しません。
「そういういわば風来坊的人間に、目をつけたのが吉田茂氏である」と正子は言います。吉田茂は終戦直後の内閣で 外務大臣に就任すると、直ちに次郎を中央で終戦連絡の事務に当たらせます。GHQの矢面に立たせたわけです。
それより先、昭和十五年に次郎は、日米戦争は不可避だが、参戦すれば日本は負けると断じて職を退き、疎開の準備に入ります。十八年に東京郊外・鶴川に移転してからはもっぱら農業に従事しました。
地方に住みながら中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央へ出て、彼らの姿勢を正すといった人間を、 イギリスでは「カントリー・ジェントルマン」と呼びますが、いかにも次郎にふさわしい言葉です。占領下でありながら、 言うべきことを堂々と主張する次郎に、GHQ側はほとほと手を焼いたようです。本国には「従順ならざる唯一の日本人」 と報告しています。
昭和二十五年には首相となった吉田茂の特使として、アメリカに渡って平和条約のお膳立てを果たし、翌年のサンフランシスコ 講和会議には首席全権委員顧問として出席しました。
昭和二十六年から三十四年までは、東北電力会長として、戦後の電力再編に務めます。ヘルメットにサングラス、長靴で、 みずからランドローバーを運転して、ダム工事現場をまわるような異色の会長でした。
晩年の次郎が心血を注いだのが、軽井沢ゴルフ倶楽部です。芝の手入れから、従業員の生活、会員の行儀にいたるまで、 ひとつもゆるがせにしませんでした。正子は「歴代総理大臣には随分迷惑をかけたに違いない」といいますが、会員でなければ、 総理大臣でも追い返す、SPをコースに入れるなどもってのほかという姿勢を崩しませんでした。
その生涯を貫いたのは「プリンシプル、つまり原則に忠実である」という信念です。「まことにプリンシプル、プリンシプル、 と毎日うるさいことであった」と正子は回想しています。
八十になるまでポルシェ911を乗り回した根っからの「オイリー・ボーイ」。最後に残した言葉は、「右利きです。夜は左……」。 注射のため利き腕をたずねた看護婦に、そう答えたそうです。
勢いよく書かれた遺書にはたった二行「葬式無用、戒名不用」とありました。
縁あって 交友録
白洲文平
Bunpei Shirasu
白洲次郎の父。実業家。三田藩九鬼氏の家老の家に生れる。アメリカのハーバード大学に留学し、卒業後はさらにドイツのボンに学んだ。
近衛文麿
Fumimaro Konoe
五摂家筆頭の公爵家に生れた政治家。アジア主義者だった父・篤麿(あつまろ)の縁で、頭山満(とうやまみつる)ら右翼と関係を持つ一方、京都帝大でマルクス主義者・河上肇(はじめ)の指導に接した。
吉田茂
Shigeru Yoshida
外交官・政治家。土佐自由党の竹内綱の五男として東京に生まれ、幼児に吉田家の養子となる。東京帝大卒業後外務省に入省、駐伊・駐英大使を歴任。
ケンブリッジ大学、クレア・カレッジのOB向けニュースレターで紹介いただきました。
企画展〈開催中〉
武相荘—冬
11月30日(火)〜12月25日(土)
冬季休館を挟んで
2022年1月8日(土)〜 2月27日(日)
月曜定休※祝日は開館 (カレンダーへ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/白洲次郎
樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。
父方の祖父・樺山資紀は薩摩出身の軍人・政治家。正子も、自分に薩摩人の血が流れているのを強く感じていたという。幼時より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つ。その後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。帰国後まもなく次郎と結婚する。互いに「一目惚れ」だった。
西国巡礼のころ 戦後は早くより小林秀雄、青山二郎と親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。二人の友情に割り込むために、飲めない酒を覚えるが、そのため三度も胃潰瘍になるなど、付き合い方は壮絶。加えて銀座に染色工芸の店「こうげい」を営み、往復4時間の道を毎日通っていた。この店からは田島隆夫、古澤万千子ら多くの作家が育つ。青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかった。次郎と同様、葬式はせず、戒名はない。
「私は不機嫌な子供であった。今でいえば自閉症に近かったのではなかろうか。三歳になっても殆んど口を利かず、 ひとりぼっちでいることを好んだ」。白洲正子はみずからの幼少時代を、こう回想しています。
正子がこの世に生を享けたのは明治四十三年一月七日。樺山伯爵家の末っ子は、甘やかされたお嬢様とは、わけが違っていたようです。
「小学校へ入る前に、富士山に登りたいといってダダをこねたのも、十四歳の時に一人でアメリカへ行くと いってゴネたのも、あばれん坊の白洲次郎と結婚させなければ家出をするといっておどかしたのも」、その表われでしょう。
勝ち気で負けず嫌いの少女は、それまで女人禁制だった能の舞台に立ち、アメリカではスポーツに明け暮れ、帰国すると まもなく、互いに「一目惚れ」で白洲次郎と結婚。二男一女をもうけます。戦火迫る東京から鶴川村に移転したのは、 昭和十八年のことでした。
鶴川の生活はのんびりしていましたが、正子は一介の主婦におさまってはいられませんでした。 戦後早々、小林秀雄・青山二郎・河上徹太郎の「特別な友情」に猛烈な嫉妬を覚えて、「どうしてもあの中に割って入りたい、 切り込んででも入ってみせる」と決心します。
正子の後半生を決定づける出会いでした。「切り込んで」というのは、 あながち誇張した表現ではないでしょう。「割って入」ろうとするたびに、言葉で痛めつけられ、酒が呑めないと罵られ、 泣かされたあげく、三度も胃潰瘍になって血を吐いたというのですから。
朝から明け方近くまで、東奔西走(とうほんせいそう)する正子を、青山二郎は「韋駄天お正」と命名しました。 「韋駄天お正」の健脚ぶりは、後年になっても衰えを知りません。『西国巡礼』『かくれ里』『近江山河抄』 『十一面観音巡礼』といった名紀行を生む旅は、五十代なかばから、六十代にかけてのことでした。険しさをものとも しない足どりは、しばしば若い同行者を驚かせています。
ただ足を運ぶのでなく、社寺であれば本殿、仏閣のさらに奥に、 何かあるはずだと、藪をかきわけ、道なき道をたどらずにはいられない。天性のカンだったのでしょうか。さも当然の ような書きぶりですが、そうした「発見」は、白洲紀行の大きな魅力です。
七十歳を迎えようとするころから、正子はかけがえのない人たちを矢継ぎ早に失います。青山二郎、河上徹太郎、小林秀雄、 そして夫・次郎まで。哀しみは察してあまりあるでしょうが、この世とあの世の境など、もはや意味をもたなかったのかも 知れません。
八十になんなんとしてなお、能楽師・友枝喜久夫の「おっかけ」と称して、九州まで追って行き、ほしい骨董はないかと眼を 光らす。骨董買いは最晩年まで続きましたが、親子といえどもライバルで、譲るといった手心は加えなかったそうです。 白洲正子の生涯は、最期まで「真剣勝負」だったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/白洲正子
私たちは、〔太平洋戦争開戦の〕二年ほど前から、東京の郊外に田圃と畑のついた農家を探していた。食料は目に見えて少くなっており、戦争がはじまれば食べものを確保しておくのが一番必要なことだと思っていたのである。
その頃、タチさん〔幼少より正子についていたお手伝いさん〕の親戚におまわりさんがいて、南多摩郡鶴川村の駐在所につとめていたが、彼は至って好人物で、秋は栗拾いに、春は苺(いちご)狩と筍(たけのこ)掘りに、子供たちを誘ってくれた。万葉集の東歌(あずまうた)にも詠まれている「多摩の横山」の丘陵ぞいに、茅葺(かやぶ)きの農家が点在するのどかな農村で、戦争が近いことなどどこにも感じられない。おまわりさんは、もし郊外に家を探しているならぜひ鶴川村へ来るようにとしきりに誘った。
折も折、次郎がつとめていた日産系の会社をやめたので、退職金が入った。たしか一万円か、二万円足らずであった。そのまま持っていればどうせ私たちのことだからなしくずしに使ってしまう。それなら、土地でも買っておいた方がいいということで、おまわりさんの世話で鶴川の付近を見て歩いていた。売家はいくらでもあったが、いずれも帯に短かく襷(たすき)に長しで、探すだけに一年以上もかかってしまった。
ある日の帰り途(みち)に、こんもりした山懐にいかにも住みよさそうな農家を発見した。駅からもそんなに遠くはない。あんなところがいいな、住んでみたいなあと、ひとり言のように呟(つぶや)くと、おまわりさんは私の帰ったあとで、直ちに交渉してくれた。
それは咄嗟の思いつきにすぎなかったが、縁というのは不思議なもので、話はトントン拍子にきまり、翌月からもう修理にかかることとなった。
その家には年老いた夫婦が、奥の暗い六畳間に、息をひそめるようにして住んでいた。息子さんはどこか遠くへ出稼ぎに行っているとかで、ぜんぜん構って貰えなかったらしい。そんな哀れな人たちを、追い出すようなことはしてくれるなと、おまわりさんにはくれぐれも頼んでおいたが、彼らはむしろ喜んでおり、せめて電車の見えるところに住みたいと、快くゆずって貰えたのは倖(しあわ)せなことであった。
その老人たちが住んでいた北向きの部屋が、今は私の書斎になっているが、農家の人々にとっては、いわば「姨捨山(うばすてやま)」のような一隅ではなかったであろうか。彼らばかりでなく、四、五代前の老人たちも、皆この部屋で命を終えたかと思うと、見知らぬ人々であったとはいえ、ある種の感慨を覚えずにはいられない。五十年も住んでいれば、私にとっても何か「結界」のような感じがして、書斎へ入る度に身の引締まる思いがするのである。
そんな風であったから、家の中は荒れ放題だった。茅茸屋根は雨洩(あまも)りがしていたし、床も腐って踏みぬくというあんばいである。買ってはみたもののそのままでは住めなかったが、さすがに骨組だけはしっかりしており、大黒柱や梁(はり)などは見事なもので、それだけで私たちは満足した。
それは昭和十五年のことで、若者たちはみな召集されて村には年老いた大工が一人残っているだけだったが、戦争がはじまった後でも、すぐ空襲がはじまるわけではなし、ゆっくり修理をすればいいと思っていた。で、私どもは水道町の家から鶴川へときどき通っていたが、そうしたある日のこと、突然東京にアメリカの艦載機が現れて、何発か爆弾を落して行った。空襲警報は鳴る。兵隊さんは駆けつける。隣組の人たちが右往左往する。私はどうしていいか判(わか)らず、子供たちを抱いてぼんやり眺めていたが、飛行機は数発爆弾を落しただけであっさり引上げてしまった。そのあとから黒煙が上るのを見ていると、とてもこうしてはいられないと思い、直ちに鶴川村へ引越すことに決心した。なまじヨーロッパの状勢を知っていただけに、臆病になっていたのと、そうでなくても私ども夫婦はせっかちだったのである。
「鶴川村へ移る」/『白洲正子自伝』所収
邸内の道しるべ
次郎と正子が家族とともに楽しく暮らした家 — 武相荘。当館は今も、当時ままにその様子をとどめております。
四季折々の展示では、様々な分野で時に奔走し活躍した二人の仕事と生活をご紹介しています。
1. 武相荘案内図(画像クリックで拡大表示)