ベアテ・ゴードン 憲法草案を起草したアートディレクター 予告編
戦後の日本人女性の人権確立に多大な影響を与えた日本国憲法第14条及び24条の草案作成に携わったアメリカ人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの半生と、その功績を綴った長篇ドキュメンタリー。監督・脚本は「夢は時をこえて―津田梅子の紡いだ絆」の藤原智子。撮影を「伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心」の海老根務が担当している。第78回キネマ旬報文化映画ベスト・テン第8位、第17回東京国際女性映画祭出品、2004年度日本映画ペンクラブ賞ノン・シアトリカル部門第3位、企業メセナ協議会認定、芸術文化振興基金助成事業作品。
2004年製作/92分/日本
配給:「ベアテの贈りもの」製作委員会
ストーリー
“リストの再来”と謳われたピアニスト、レオ・シロタの娘として、1923年、ウィーンに生まれたベアテ・シロタ・ゴードンさん。5歳の時、山田耕筰に招かれ東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授となった父と共に来日した彼女は、第二次世界大戦を挟み再来日した際、日本国憲法の草案作成の委員に起用され、そこに女性の人権の確立を盛り込んだ。生憎、条文の多くはGHQの委員会で削除されたが、人権に関する14条と男女平等に関する24条に彼女が書いた条項の一部が残った。そして46年11月3日、日本国憲法公布。以来、日本女性の社会進出は目覚しい。46年には女性が初の選挙権を行使し、39名の女性議員が誕生した。また、労働省に婦人少年局が置かれ、山川菊栄が初代局長に選ばれた。47年、家父長制度が廃止、更に教育基本法が施行され男女共学が実現。その後も、“国連婦人の10年”の女子差別撤廃条約の批准、国籍法の改正、家庭科の男女共修、男女雇用機会均等法の成立など、真の男女平等を遂げつつある。日本で度々講演を行っているベアテさんは、最後にこう締め括った。「今の日本の女性は素晴らしいです。どうかこの憲法を一層生活の中に活かし、今度は世界の女性たちのために働いて下さい」と。
公式サイト:http://www.beateg.com
https://thegiftfrombeate.wordpress.com
日本国憲法(1946年11月3日公布)に、第14条「法の下の平等」と第24条「家庭生活における両性の平等」を草案したベアテ・シロタ・ゴードンの功績、それを受けて活動展開を進める日本女性たち、変化する日本社会、そして今後を問うドキュメンタリー。
このドキュメンタリー映画は、ベアテ・シロタ・ゴードンがピアニストの亡き父レオ・シロタのレコードを保有する岩手県紫波町のあらえびす記念館を訪ねるところから始まる。ベアテ・シロタ・ゴードンこそが、男女平等を定めた日本国憲法第24条の生みの親だった。
昭和初期の日本で、彼女は、日本女性たちの抑圧された状況を目のあたりにして育ち(5~15歳)、大学は単独で米国へ、卒業後はタイム誌の外国部リサーチャーとなった。1945年8月、第二次世界大戦が終わり、彼女は1945年12月、GHQ民間人要員として日本へ赴任、大戦中、音信不通だった両親と会えた。そして1946年、六ヶ国語をこなす彼女は、日本国憲法草案委員として弱冠22歳で、歴史的に重要な法案を起草した。
映画は続いて、日本女性たちの活動に及び、「ベアテからの贈りもの」を受けた女性たちが、これまで男性の支配下だった社会に、次々と起こした変化が語られる。彼女達の地道な努力の結果の積み重ねが、記録フィルムとインタビューによって構成された後半は、女性史・昭和史として、現代に生きる人々へ多くの実積を語り伝え、そして受け継がれていくことを意図したものである。
ストーリー
“リストの再来”と称されたピアニスト、レオ・シロタの娘として1923年ウィーンに生まれたベアテ・シロタ。作曲家山田耕筰が、父親のレオ・シロタを反ユダヤ主義の欧州から招き1928年に東京で演奏会、翌年彼は再来日し、1931年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に就任した。
5歳のベアテは両親と東京乃木坂に住み、1936年にはドイツ学校から、アメリカンスクールへ転校し、自身の家庭の自由な雰囲気とはかけ離れた、抑圧された日本の女性達の実態も見聞きする少女時代を過ごした。
そして15歳で米国のミルズカレッジへ進学、両親と離れて暮らし始めたが、1941年に日米開戦となり、両親との連絡・送金も途絶えた。
終戦1945年の12月、彼女はGHQ民間人要員を志願し来日し両親と会えた。翌年、日本国憲法の草案委員の一人に起用され人権小委員会に属し、日本女性の状況を知る彼女は、女性の地位向上に関して様々な条項を書いたが、その多くはGHQの委員会で削除された。然し、彼女が思いを込めた人権は第14条に残り、そして男女平等は第24条となった。
翌年7月ベアテは両親と、GHQでベアテと同時期、日本語通訳であったジョセフ・ゴードンが待つNYへ帰国、1948年1月結婚、ベアテ・シロタ・ゴードンは、翻訳の仕事をしていた。
1952年秋、ロックフェラー財団の援助で、日米の指導的立場の人物交流の第一陣として日本から市川房枝が渡米し、ベアテはその通訳を務めたが、日本国憲法との関わりは秘密だった。以後、彼女はジャパンソサエティ、アジアソサエティに属し、日本・アジアの芸術文化を米国に紹介し続けた。
1946年11月憲法公布、日本初の女性の選挙権行使では、39人の女性議員が生まれ、労働省発足、婦人少年局長に山川菊栄が初代局長に選ばれた。
1947年、家父長制度が廃止、さらに教育基本法が施行され男女共学が実現。1980年には、高橋展子デンマーク大使が、国連婦人の10年の女子差別撤廃条約に署名、85年に批准、そして赤松婦人局長の下で男女雇用均等法の成立となった。国籍法の改正、家庭科の男女共修と進み、また、民間企業における男女同一賃金に関する裁判の一審敗訴に、支援の呼びかけも広がり、国連の委員会からの日本政府への勧告の反映もあり、二審で和解、賃金のみならず昇進も獲得。女性の視座を論じ、大学では「女性学」も誕生。
1999年、男女共同参画基本法も成立、女性たちの職業・活動分野も多面化した。国際的には緒方貞子国連難民高等弁務官の存在も注目された。
1993年TV番組「日本国憲法を生んだ密室の九日間」放映がきっかけとなり、ベアテは日本で講演を毎年行ってきた。この映画の最後に「日本の女性は心と精神が強い、みんなで頑張って欲しい、明るい将来のために。私が草案した権利を生活に活かし世界の女性達のためにも働きかけてください」と彼女は期待を語っている。
監督・脚本藤原智子
1932年、東京生まれ。東京大学美学・美術史学科を卒業後、記録映画の 世界をめざし、1955 年、卒業とともに記録映画会社に入社。短編記録映 画の脚本・演出に携わり、監督第一作の「オランウータンの知恵」(60) 以降、その仕事は90本を超す。1995 年以降は、日本の近・現代史を問 う初の長編ドキュメンタリー「杉の子たちの 50 年」に続き、「ルイズ そ の旅立ち」「伝説の舞姫 崔承喜」「夢は時をこえて-津田梅子が紡いだ絆」 など長編作品を 次々と発表。 これらの作 品でキネマ 旬報文化映画部門ベス トテン第一位をはじめ数々の賞を受賞している。
http://www.jicl.jp/old/now/cinema/images/chirashi.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原智子
Beate Sirota Gordon ベアテ・シロタ・ゴードン
1923(大正11)年
ウィーン生まれ。
ロシアのピアニスト、レオ・シロタ氏が父
レオ・シロタは、リストの再来と言われた。
5才の時、山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任した父とともに来日し、少女時代を乃木坂で過ごす。
15才、サンフランシスコのミルズ・カレッジへ留学。第2次大戦始まる。
1945(昭和20)年
GHQ民政局のスタッフに志願し、滞日中の両親に会うため再来日。
22才の若さで日本国憲法の人権条項の草案作成に携わる。
その草案は、第14条「法の下の平等」、第24条「両性の平等の原則」などに生かされている。
また、日本政府との交渉には、通訳として立ち会った生き証人である。
1996(平成8)年
この年より日本全国で講演活動を展開、その数200ヶ所以上に及ぶ。
1997(平成9)年
エイボン女性大賞受賞
2005(平成17)年
第9回赤松良子賞受賞
女性差別撤廃条約批准20周年記念の会
国際女性の地位協会
6ヶ国語(英日露独仏西)に堪能。
2012(平成24)年
12月30日 ニューヨーク市にて逝去、89歳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベアテ・シロタ・ゴードン
https://web.archive.org/web/20090905195740/http://www.pinn.net/~sunshine/whm2001/gordon.html