予告編
柄本佑×瀧内公美 <R18>大人の愛の物語
直木賞作家・白石一文 初の映画化
日本を代表する脚本家・荒井晴彦 監督最新作 柄本佑×瀧内公美 W主演
「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」
モノクロームのエロティックな写真と共に綴られる―。
身体の言い分に身を委ねる、男と女を描く<R18>衝撃作。
出演:柄本 佑 瀧内公美
原作:白石一文「火口のふたり」(河出文庫刊)
脚本・監督:荒井晴彦
直木賞作家・白石一文が男と女の極限の愛を描いた小説「火口のふたり」を、柄本佑と瀧内公美の共演で実写映画化。「幼な子われらに生まれ」「共喰い」などの名脚本家で、本作が監督第3作となる荒井晴彦が監督・脚本を手がける。東日本大震災から7年目の夏。離婚、退職、再就職後も会社が倒産し、全てを失った永原賢治は、旧知の女性・佐藤直子の結婚式に出席するため秋田に帰郷する。久々の再会を果たした賢治と直子は、「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」という直子の言葉をきっかけに、かつてのように身体を重ね合う。1度だけと約束したはずの2人だったが、身体に刻まれた記憶と理性の狭間で翻弄され、抑えきれない衝動の深みにはまっていく。
公式サイト:http://kakounofutari-movie.jp
http://shinjuku.musashino-k.jp/movies/11102/
直木賞作家・白石一文作品初の映画化
本作は、09年「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」で山本周五郎賞、10年「ほかならぬ人へ」で直木賞を受賞し、幅広い世代から絶大な支持を得る白石一文による著作の初の映画化となる。
映画化を快諾したという白石氏は、「『赫い髪の女』や『遠雷』の頃から荒井晴彦さんの脚本に魅せられてきた者のひとりとして、その荒井さんから映画化の話をいただき、一も二もなくすべてをお任せすることにした。しかも今回は自らメガホンを握って下さるという。原作者としてこれに優る光栄はない映画界の伝説ともいうべき荒井晴彦さんの手で、その光がよりなまなましく、妖しく観る者の心を照らし、身の内に眠っていた“おとこ”や“おんな”が強く喚起されんことを切に願っている。」と語り、映画化へ向けて期待の言葉を寄せている。
物語
十日後に結婚式を控えた直子は、故郷の秋田に帰省した昔の恋人・賢治と久しぶりの再会を果たす。
新しい生活のため片づけていた荷物の中から直子が取り出した1冊のアルバム。
そこには一糸纏わぬふたりの姿が、モノクロームの写真に映し出されていた。
蘇ってくるのは、ただ欲望のままに生きていた青春の日々。
「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」
直子の婚約者が戻るまでの五日間。
身体に刻まれた快楽の記憶と葛藤の果てに、ふたりが辿り着いた先は―。
監督:荒井晴彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/荒井晴彦
(直木賞作家)白石一文「火口のふたり」(恋愛小説)河出書房新社2012年1
https://ja.wikipedia.org/wiki/火口のふたり
https://ja.wikipedia.org/wiki/白石一文
J&B:12:45-14:50 (115分)
荒井:東日本大震災が起きて、翌年の2012年にはもう原作は発行されていますよね。当時、いろんな新聞に書評が出ているのを見たのと、同業者の小川智子から勧められて原作を読んだのですが、興味をひかれたのは、日本が終ってしまいそうな時に、「身体の言い分」に身を委ねる二人がアナーキーでいいなと思いました。世間的な価値観や倫理じゃなくて、身体がしたい事をさせてあげようという。“自然災害=超自然”に対して、“人間の自然”で対峙しようという事ですよね。
白石:映画を観た直後の感想としては、「身体の言い分」という点に荒井さんはテーマを強く絞り込んでおられるんだなと感じましたね。そこが、とても鮮やかで原作者の僕でもハッとさせられるものを感じた。劇中、賢治と直子が二人で寝ていて、昔の話をするところがありますよね。あの場面なんてジーンとしてしまった。自分の作品のキモを一発で言い当てられたような気がしました。ところで、荒井さんはどうして今回、脚本だけじゃなく、監督までしようと思ったんでしょうか?
荒井:登場人物が二人くらいなら監督できるかなと。ただ、年齢の設定は、白石さんが書いていたよりも、大分、若くなった。白石さんの原作では賢治は40前後、直子は30代半ばですよね?当初、その年代の俳優をずっと探してはいたんですけど。ただ、主演の二人が若くなった分、ちょっと明るい軽い感じになって青春映画になったようにも思いましたね。
白石:それは僕も感じましたね。これを書いたとき、自分は結構な年齢で、セックスに対する興味もずいぶん薄れてしまっていたんです。若い人の欲望や衝動は分からない気がしていた。でも、映画を見て、小説ももう少し若い設定でもよかったのかもしれないと思いましたね。瀧内さんと柄本さんだから、賢治と直子のやり取りもエネルギッシュにもなりましたね。そもそも原作はほとんどセックスシーンだけだから、よく、映画化してもらったなと思います。執筆していた時期は原発事故が生々しく、誰もが大きな不安を抱えていた。たとえばもっと原発に近い場所に住んでいて、自分がもう少し若かったら一体どうするだろうと考えました。人がたくさん亡くなったり故郷を追われるような事態に向き合うと、作家として何か書かなきゃいけない。ただ、そこで嘘はやっぱり書けない。できるだけ嘘を排した物語を探す過程で、人は大きな世界が壊れた時、小さな世界の中に生きる道を見つめるしかないと思うわけです。直子と賢治は二人だけの小さな世界に閉じこもり、男女である以上は当然身体の関係が伴うので、嘘のつけない宇宙の中に放り込まれるんじゃないか。そこには快感もあるし、持っている特質も表に出るんだろうな、と。そしてそうした小さな宇宙の中に潜んだときに人間は初めて本当のしぶとさを発揮するような気がしたんですね。
荒井:だから原作と出会ってからずっと、早く撮りたいと言っていたんですよ。東日本大震災の後、日本のあちこちで噴火も起きて、地震も起きて、自然災害という非日常的な、それは戦争という言葉にも置き換えられるけど、そういう理不尽な状況に対して、気持ちいいって言葉をぶつけたかったんですね。こんな緊急事態にセックスばっかりしている。それはアンモラルなことで、考えようではとんでもないことなんだけど、そういう風に作って、やってみたいなと思ったんです。
身体の言い分に身を委ねる、男と女
荒井:前回、監督した『この国の空』でもそうだけど、背景には戦争という大きなことがあるけれど、それよりも自分と自分の好きな男の問題の方が大きい、僕はそれでいいんだよ、と。みんながそうなれば戦争もできない。世の中の事に全部、背を向けろということになるかもしれないけど、だからこそ、白石さんの“身体の言い分”という言葉の発見はすごいなと思う。理性か、身体かと自問自答した際、身体の言い分を聞こうよというのは革命的な意見だと思うんですよ。それを抑えろとするのが世の中がだから。
白石:僕は男なので、これは幻想かもしれないけど、何か困ったら、女の人のところに逃げればいいといつも思っているんです。セックスに限らず、女性の中には何でも入れるような気がして、防空壕、逃げ場所なんです。だから拒絶されると終わりで、失望しかないんですけど、でも、本当に困ったとき、大変なとき男はどこか別の場所に逃げるのではなく女の人の中に逃げなさいと言いたい。逃げるのって難しいんです。逃げる体力があるときは逃げないし、体力がなくなってから逃げようとするとすぐ息が切れちゃう。今の男性はそういう点でトランプのスペードのエースを使ってないような気がする。それを使っていいんだよと、それだけは是非伝えたいですね。
インタビュアー:金原由佳
やはりポルノ映画である。
「身体の言い分」と言う表現に阻害されて、
性の<快楽><快感>の中身がセックスシーンの映像表現として、できていないのだ。
「気持ちいい」と言えば、それを表現できるわけではない。
また、「会話」の中身も、(最後のシーンも含めて)、リアリティがなく、
もん切り型のオンパレードで、固有の相互のやりとりがなく、面白くないのだ。