予告編
ゲイカルチャー界のウォルト・ディズニー
鉛筆一本で革命をおこし“自由”と“誇り”のシンボルになった
20世紀最も偉大な芸術家の愛と栄光の物語
ゲイアートの先駆者としても知られるフィンランドの国民的芸術家トム・オブ・フィンランドの半生を描いた伝記ドラマ。同性愛がまだ法律で禁止されていた第2次世界大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネンは、鍵をかけた自室でスケッチブックに向かい、己の欲望をドローイングとして表現していた。彼がスケッチブックに描いたのは戦場で出会ったたくましい男たちの姿だった。妹のカイヤから広告の絵を描く仕事を紹介されたトウコは広告の世界で才能を発揮し、昼は広告会社、夜は部屋で作品作りに没頭する日々を送っていた。そんな中、トウコが「トム・オブ・フィンランド」の作家名でアメリカの雑誌の表紙を飾る。彼が描くたくましい男性のイラストは、数多くのゲイ男性たちの理想像として共感を呼び、その評判は世界中に広がっていった。監督は「トールキン 旅のはじまり」のドメ・カルコスキ。「トーキョーノーザンライツフェスティバル2018」(18年2月10~16日/渋谷ユーロスペース)上映作品。
公式サイト:http://www.magichour.co.jp/tomoffinland/
1976年、キプロス共和国生まれ。5歳で母の母国フィンランドに移住。名門・ヘルシンキ美術大学(現アールト大学)で演出を学ぶ。ミュージシャンの夢を追う若者たちを描いた長編デビュー作『Beauty and the Bastard』(2005)でユッシ賞(フィンランドのアカデミー賞)観客賞を受賞。2作目の『The Home of Dark Butterflies』では問題児が集まるスパルタ施設に送られた13歳の少年のサバイバルを描き同監督賞を受賞、また米アカデミー賞の外国語映画賞フィンランド代表作品に選ばれる。3作目『Forbidden Fruit』(2009)では、キリスト教原理主義の村で育った少女たちが信仰と欲望の間で葛藤する姿を描いた。その後、ダメ男3人の珍道中を描いた4作目のコメディ『Lapland Odyssey』(2010)で同監督賞と作品賞をダブル受賞。同作はフィンランドで『ハリー・ポッターと死の秘宝』などを抜いて2010年最大のヒットを記録した。続く5作目『Heart of a Lion』(2013)では、白人至上主義のネオナチ男性が黒人ハーフの息子を持つ女性と恋に落ちるというストーリーで話題を巻き起こし、興行と批評の両面で成功を収める。そして第6作『The Grump』(2014)では一転、都会の息子夫婦と不本意な同居を始める頑固老人を主人公にしたユーモラスなドラマに挑戦し、再び大ヒットを飛ばした。2013年、米ヴァラエティの「注目すべき監督10人」にフィンランド人監督として初めて選出。初の海外作品であるJ・R・R・トールキンの伝記映画『トールキン 旅のはじまり』が2019年に公開。
本作は、時代の先を行っていた男の物語である。同性愛者として同性愛的なファンタジーを夢見る自分を、人間として認めようとしない世界に対し、勇敢に立ち向かった男の物語である。彼は、たった1人の人間が、たった1本の筆やペンで、世界に変革を起こせることを証明してみせた。本作は偉大な男の肖像でもあり、またラブストーリーでもある。トウコ・ラークソネンが生きた類まれなる人生は、世界が知るべき物語なのだ。(オフィシャル資料より)
トム・オブ・フィンランドとの出会い
12歳の頃、同級生がどこかで見つけてきたトム・オブ・フィンランドのコミックを、皆でクスクス笑いながら見たのが最初だ。彼の作品はユーモアと喜びにあふれていて、ある種のポジティブな感情を呼び起こされたことを今でもおぼえている。ただし多くのフィンランド人と同様に、私も作者をアメリカ人だと思い込んでいた。1991年に亡くなった時に、初めて同じフィンランド人だと知ったんだ。当時のフィンランドでは、トム・オブ・フィンランドを国の恥だと思う人も多かった。海外の人に「フィンランドはこんなゲイばかりなのか?」と思われることを恐れていたのだろう。(─ 中略 ─)
フィンランドにおける彼の評価は(この数年で)大きく変わった。今や彼はフィンランドの英雄だ。保守的な人でさえ、彼の絵は好きではないと言いつつ、彼がフィンランド人であること自体は誇りに思っている。これはフィンランドが世界有数のリベラルな国になる中で起きた変化の一つだ。〈Awards Circuit〉
企画の立ち上げとリサーチ
(企画が立ち上がった)2011年の時点では、フィンランドで手に入る彼の資料は、何冊かの本と、イルッポ・ポーヨラが監督したドキュメンタリーくらいだった。その後2013年、トム・オブ・フィンランド財団の協力により、ロサンゼルスのミュージアム(トム・オブ・フィンランド・ハウス)が所蔵する絵や記録資料を使えるようになり、脚本作りが大きく前進した。TOFはプライバシーを重視する人間だったから、そこ以外で資料を探すのは困難だった。〈Awards Circuit〉
さまざまな資料を見た中で、特に印象に残った写真がある。それは10人ほどの軍の仲間と撮った20歳の頃の写真で、皆がシャイな表情を浮かべている中、トムは一人、自信たっぷりな顔でカメラと戯れていた。彼がどんな人間であるかを理解するのに十分だった。〈Nordisk Film & TV Fond〉
20歳前後から晩年までの長いスパンを描いた理由
伝記映画の多くは、主人公の人生の転換点や象徴的な出来事を抽出して作られている。しかしトム・オブ・フィンランドの場合、1940年代から自分のために描いていた絵が後に社会現象になったわけで、彼のアーティストとしてのキャリアは何十年もの歳月をかけて進化していった。映画の物語が長いスパンにわたるのはそのためだ。そして約半世紀にわたる物語の中で、戦争中、戦後、ヴェリとの恋愛、最初の渡米、80年代のエイズ禍の5つの時期に焦点を当てた。〈Nordisk Film & TV Fond〉
トムが描いた男たちの微笑み
トム・オブ・フィンランドが描く人物は常に笑顔だ。誰一人、自分の性的指向や性癖や欲望を恥ずかしいと思っていない。セックスを喜びとして描いた作品は、2017年の現在でも人々を動揺させる。しかしどんな性的ファンタジーであれ、それを共に楽しむ人がいて、また他人を傷つけない限りは、恥ずかしく思う必要はない。(プロデューサーで脚本家の)アレクシ・バーディと私は、トムの絵が発するこのメッセージを映画として表現したいと思った。見終わった観客が、踊り、愛を交わし、人生を最大限に楽しみ尽くしたくなる映画を作りたいとね。〈Dazed〉
トウコ・ラークソネンの人生の二重性
ツイードのスーツを着てヘルシンキの広告会社で働く姿と、アメリカでリムジンに乗り込みレザージャケットを羽織る姿。彼の人生の二重性はクラーク・ケントとスーパーマンさながらだ。(この変身を象徴する)リムジンのシーンは、実際に彼が経験したことを再現した。JFK空港に降り立つと、リムジンが待ち構えていて、ジントニックを手渡されるんだ。〈Dazed〉
この二重性を表現することが重要だった。映画のルックを決めるにあたっては、多国籍感を重視した。なぜなら彼の絵は決してフィンランド的ではないからだ。そこでオランダの撮影監督とスウェーデンの美術監督を起用した。トムの心の声とも言える音楽は、フィンランドの場面はフィンランド人の作曲家が、LAの場面はLA在住のドイツ人作曲家が手がけている。(中略)トムの作品が表す自由や開放感を再現したいと思った。彼の絵にあふれている喜びの感情は、フィンランドでの抑圧された暮らしからの解放がベースにある。〈Another Man〉
トム・オブ・フィンランドが世界のゲイに与えた影響力
(カリフォルニアのゲイコミュニティの)取材の過程で出会った一人は、ノースカロライナ州出身の元アメリカンフットボール選手だった。彼は若い頃、自分をゲイだと認識していなかったが、トム・オブ・フィンランドの絵を見た時にピンときたという。彼はすぐに西海岸に引っ越し、40年以上経った今も住んでいる。マッスル・ビーチで体を鍛えるゲイの文化の一部はトムが作りだしたものだ。トムは、それまで世間がゲイ男性に対して持っていたイメージ、つまりナヨナヨしたイメージの対極にある男性像をあえて描いたんだ。〈Dazed〉
本作が持つ同時代性
私は人生を通じて、周りとは異なる視点で世界を捉えるアウトサイダーの物語に惹かれてきた。今、欧米ではポピュリスト政党や極右政党が、人々が未知の存在やアウトサイダーに対して抱く恐怖を利用して、社会をコントロールしようとしている。その犠牲になっているのがゲイを含むマイノリティだ。一人の映画人として、この現状を変えるための戦いに貢献できたとしたら光栄だ。〈Nordisk Film & TV Fond〉
国によって異なる映画への反応
興味深いことに、フィンランドで本作は自分たちの歴史を描いた映画として受け入れられた。他の国では、ゲイカルチャーを描いた映画として扱われているようだ。一方、アメリカでは(マイノリティに対する差別という)社会問題に注目する人が多かった。今のアメリカに重なる部分が多いからかもしれない。確かに本作は、表現の自由、さらに言えば存在することの自由についての映画だ。私自身は、それぞれ自由に読み取ってもらいたいと思っている。〈Awards Circuit〉
https://ja.wikipedia.org/wiki/トム・オブ・フィンランド
ヒューマントラストシネマ渋谷:16:00-18:00 (116分)
1920年
5月8日、フィンランド南西部に位置するトゥルク近郊の小さな町カーリナで、トウコ・ラークソネン(Touko Laaksonen)として生まれる。両親は教師。芸術を大切にする家庭でピアノや絵に親しむ一方、自然の中で働く肉体労働者に魅了される少年時代を送る。
1939年
広告を学ぶためにヘルシンキの美術学校に入学。
1940年
フィンランド陸軍に召集され、対空部隊に配属される。当時フィンランドはドイツと同盟を組んでおり、ラークソネンはナチスドイツの信条は嫌悪していたものの、ドイツ兵の軍服やブーツには惹かれていた。またこの頃から、灯火管制が敷かれた暗闇の中で男性と関係を持つようになる。
1945年~
終戦後、美術の勉強を再開。また、シベリウス音楽院でピアノを学ぶ。やがてフリーランスのイラストレーターとしての活動を始め、後に大手広告会社マッキャンエリクソンのアート・ディレクターの職を得る。
1953年
後に生涯のパートナーとなるヴェリ・マキネンに出会う。
1956年
ゲイ男性に人気があったアメリカのフィットネス雑誌「Physique Pictorial」に作品を送る。本名は外国人に覚えてもらいづらいと考え、Tomと署名。
1957年
上半身裸の木こりの絵が「Physique Pictorial」の表紙を飾る。以降、編集者がつけた「トム・オブ・フィンランド」が作家名となる。
1960年代
自身の分身ともいうべきキャラクター「Kake(カケ)」を登場させる。
1971年
フィンランドで同性愛が合法化される。
1973年
作家活動に専念するため、17年間勤めたマッキャンエリクソンを退職する。ドイツのハンブルグで初の個展が開催。全作品が盗まれるという悲劇に見舞われる。
1978年
ニューヨークのブーツショップStompersとサンフランシスコのギャラリーFeyway Studiosで展覧会が開かれ、初めて渡米。その後、数年のうちにロサンゼルス、パリ、アムステルダムでも展覧会が開かれ、一躍名前を知られるようになる。
1981年
パートナーのヴェリ・マキネンが喉頭がんにより死去。以降、ロサンゼルスとヘルシンキを往復する生活になる。この年、アメリカで初のAIDS発症例が報告される。以降、世界中で同性愛者に対する偏見が広がる。
1984年
自作の管理のほか、世界のエロティック・アートの収集や次世代アーティストの育成を目的とした「トム・オブ・フィンランド財団」をダーク・ダーナーと共同で設立。
1991年
11月7日、肺気腫による呼吸不全で死去。
2014年
フィンランド郵便がトム・オブ・フィンランドの記念切手を発行。
2017年
フィンランドで同性婚が認められる。