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19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンでは、絵画や建築、デザインなど、それぞれの領域を超えて新しい芸術を求めた、ウィーン独自の装飾的で煌びやかな文化が開花しました。今日では「世紀末芸術」と呼ばれるこの時代に、画家グスタフ・クリムト(1862-1918)やエゴン・シーレ(1890-1918)、建築家オットー・ヴァーグナー(1841-1918)、アドルフ・ロース(1870-1933)など各界を代表する芸術家たちが登場し、ウィーンの文化は黄金時代を迎えます。本展は、ウィーンの世紀末文化を「近代化(モダニズム)への過程」という視点から紐解く新しい試みの展覧会です。18世紀の女帝マリア・テレジアの時代の啓蒙思想がビーダーマイアー時代に発展し、ウィーンのモダニズム文化の萌芽となって19世紀末の豪華絢爛な芸術運動へとつながっていった軌跡をたどる本展は、ウィーンの豊穣な文化を知る展覧会の決定版と言えます。
展覧会の構成
第1章:啓蒙主義時代のウィーン
女帝マリア・テレジアとその息子、皇帝ヨーゼフ2世が統治した1740年代から90年代のハプスブルク帝国の首都ウィーンでは、啓蒙主義に基づいた社会の変革が行われました。理性や合理主義に基づき、社会の革新を目指す啓蒙主義の思想がウィーンに入ってきたのは、他のヨーロッパ諸国に比べ早くはありませんでしたが、この思想の熱烈な支持者であったヨーゼフ2世は、宗教の容認、死刑や農奴制の廃止、病院や孤児院の建設など、行政や法律、経済、教育においてさまざまな改革を実行しました。ウィーンは、自由な精神をもつ知識人たちを魅了し、彼らの交流の場となることで、ヨーロッパ文化の中心地へと変貌を遂げていったのです。
マルティン・ファン・メイテンス《マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)》
1744年 油彩/カンヴァス 216.2 x 162.5 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
フランツ・クサーヴァ―・メッサーシュミット《究極の愚か者(「性格表現の頭像」シリーズより)》
1770年以降 雪花石膏 41.3 x 25 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
第2章:ビーダーマイアー時代のウィーン
ナポレオン戦争終結後の1814年には、各国の指導者たちが集まったウィーン会議が開催され、ヨーロッパの地図が再編されます。以降、1848年に革命が勃発するまでの期間は、「ビーダーマイアー」と呼ばれます。当初、家具の様式を指す言葉でしたが、やがてこの時代の生活様式全般と精神構造を表すようになりました。急激な都市化と同時に政治的抑圧が強かったこの時代、それに対する反動として、人々の関心は「私的な領域」へ向けられます。あらゆる著作物に対し検閲が実施されるという抑圧された環境の中、画家たちがテーマとして選んだのは、日常生活やのどかで親しみやすい都市や農村の風景画でした。
世紀末芸術が花開いた1900年頃のウィーンでは、ビーダーマイアーが文化の着想源として参照されました。日常生活に実用的な美を見出したビーダーマイアーは、後にモダニズムのモデルとなったのです。
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー《作曲家フランツ・シューベルト》
1875年頃 油彩/カンヴァス 96 x 79 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
《ウィーンの私の部屋》
1837-42年 鉛筆、水彩 23.8 x 35.8 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
フリードリヒ・フォン・アメリング《3つの最も嬉しいもの》
1838年 油彩/カンヴァス 80 x 80 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
第3章:リング通りとウィーン
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に、ウィーンは帝国の近代的首都へと変貌を遂げます。人口は、150万人から220万人にまで増加しました。
近代的な大都市への変貌は、1857年に皇帝が都市を取り囲む城壁の取り壊しを命じ、新しいウィーンの大動脈となる、「リング通り(リングシュトラーセ)」を開通させたことに始まります。沿道には帝国の要となる建築物が次々と建設されました。
リング通りは19世紀のウィーンの象徴(シンボル)であるといえます。1879年には画家ハンス・マカルト演出による皇帝夫妻の銀婚式を記念する盛大な祝賀パレードが開催されました。また、沿道には、古典主義様式の国会議事堂、ゴシック様式の奉献教会、ルネサンス様式の大学など歴史主義建築の建物が立ち並び、さらに19世紀末にはウィーン分離派の建築も建設されました。
ハンス・マカルト《1879年の祝賀パレードのためのデザイン画―菓子製造組合》
1879年 油彩/カンヴァス 64 x 285.3 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
第4章:1900年―世紀末のウィーン
カール・ルエーガーがウィーン市長として活躍した時代(1897年-1910年)には、さらに都市の機能が充実します。路面電車や地下鉄など公共交通機関も発展し、建築家オットー・ヴァーグナーがウィーンの都市デザイン・プロジェクトを数多く提案しました。計画のみに終わったものもありますが、今日のウィーンの街並みは、実現されたヴァーグナーの建築によって印象付けられています。
絵画の分野では、1897年にグスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成しました。1903年には、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立されました。
ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層でした。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出したのです。
グスタフ・クリムト《愛》(「アレゴリー:新連作」のための原画 No.46)
1895年 油彩/カンヴァス 62.5 x 46.5cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
《アルトゥール・シュトラッサーによる「マルクス・アントニウス」のモニュメントとウィーン分離派会館の眺め》
1905年頃 写真 21.2 x 46.5 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Mahuel Carreon Lopez
エゴン・シーレ《ひまわり》
1909-10年 油彩/カンヴァス 149.5 x 30 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
ダゴベルト・ペッヒェ《ティーセット》
制作:ウィーン工房 1922-23年頃 象牙、エンボス加工された銀 ティーポット:19.9 x 27.4 x 16.2 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》
1902年 油彩/カンヴァス 178 x 80 cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz
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