予告編
長編デビュー作「キャラメル」が高い評価を得たレバノンの女性監督ナディーン・ラバキーが、貧しさゆえに親からまともな愛情も受けることができずに生きる12歳の少年の目線を通し、中東の貧困・移民問題を抉り出した人間ドラマ。中東の貧民窟で暮らす12歳のゼインは、貧しい両親が出生届を提出していないため、IDを持っていない。ある日、ゼインが仲良くしていた妹が、知り合いの年上の男性と強制的に結婚させられてしまい、それに反発したゼインは家を飛び出す。仕事を探そうとしたがIDを持っていないため職に就くことができない彼は、沿岸部のある町でエチオピア移民の女性と知り合い、彼女の赤ん坊を世話しながら一緒に暮らすことになる。しかしその後、再び家に戻ったゼインは、強制結婚させられた妹が亡くなったことを知り……。2018年・第71回カンヌ国際映画祭で審査員賞とエキュメニカル審査員賞を受賞。
公式サイト:http://sonzai-movie.jp
https://en.wikipedia.org/wiki/Capernaum_(film)
Introduction
誕生日も知らない、戸籍もない少年ゼイン。
両親を告訴するに至るまでの痛切な思いが心を揺さぶる――
全世界へと広がり続けている絶賛の波が、
ついに日本へ押し寄せる!!
苛烈なまでの中東の貧困と移民の問題に、一歩もひるむことなく果敢に挑んだ監督は、レバノンで生まれ育ったナディーン・ラバキー。監督・脚本・主演を務めたデビュー作『キャラメル』が、いきなりカンヌ国際映画祭の監督週間で上映された逸材だ。本年度のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員長にも就任し、今やその才能の輝きはとどまるところを知らない。リサーチ期間に3年を費やし、監督が目撃し経験した事を盛り込んでフィクションに仕上げた。主人公ゼインを始め出演者のほとんどは、演じる役柄によく似た境遇にある素人を集めた。感情を「ありのまま」に出して自分自身を生きてもらい、彼らが体験する出来事を演出するという手法をとった結果、リアリティを突き詰めながらも、ドキュメンタリーとは異なる“物語の強さ”を観る者の心に深く刻み込む。社会の非人道的な深みに設定を置きながらも究極的に希望に満ちた本作は、「何か行動をしなければ」と強く思うほどに心をかき乱すが、中東のスラムという、日本からは地理的・心情的に遥か遠い地域を舞台にしながらも、少年の成長物語という普遍性が魂の共鳴をもたらしてくれる。 ゼインが求めているもの、それはすべての子供たちにあるはずの〈愛される権利〉。その権利を手にするまでの長い旅路に胸を締めつけられながらも、一筋の光を求めて、新たなる出発の無事と幸運を祈らずにはいられない慟哭の物語。
STORY
わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。訴えた相手は、自分の両親だ。裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。果たしてゼインの未来は―。
監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキ―
Nadine Labaki
1974年2月18日レバノン、ベイルートで生まれ、内戦の真っただ中に育つ。
1997年にベイルートにあるベイルート・サンジョセフ大学にてオーディオ・ビジュアル学で学位を取得。卒業後は早速、テレビのコマーシャルや地域で有名なアーティストのミュージック・ビデオ等を監督し始め、いくつかの賞を受賞。
2005年にはカンヌ国際映画祭の主催する「レジダンス」制度に参加し、ベイルートを舞台にした初めての長編映画『キャラメル』の脚本を執筆した。彼女自身がメガホンを取り、主演も果たした。2007年のカンヌ国際映画祭での監督週間にて初上映され、ユース審査員賞を受賞。さらに、サンセバスチャン映画祭では、観客賞を受賞した。『キャラメル』は、60か国以上の国で上映された。2008年には、フランスの文化・通信省より、芸術文化勲章を授与される。ナディーンの長編映画第二段『Where Do We Go Now?(英題)』でも、脚本/監督/出演をこなした。この作品はカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門にて上映され、エキュメニカル審査員スペシャル・メンションを受賞。さらに、2012年のサンダンス映画祭に上映される前に、トロント国際映画祭では観客賞を、サンセバスチャン映画祭でも観客賞を受賞。ロサンゼルス映画批評家協会賞の最優秀外国作品賞にノミネートされ、レバノンでの興行成績がアラブ映画として歴代一位。2014年には、『リオ、アイラブユー』を監督。都市をテーマにしたオムニバス映画シリーズの一環である。彼女が監督し、脚本は共同執筆した。自身も出演し、ハーヴェイ・カイテルと共演している。
役者としては、フランスのフレッド・カヴァイエ監督の『友よ、さらばと言おう』(2014)、グザヴィエ・ボーヴォワ監督の『チャップリンからの贈り物』(2014)、また、レバノン出身の監督ジョージ・ハシェムの『Stray Bullet(原題)』(2007)、モロッコ出身の監督レイラ・マラクシの『Rock the Casbah(原題)』(2013)など。本作ではゼインの弁護士役として出演している。
【フィルモグラフィ】
2007年-『キャラメル』
2011年-『Et maintenant on va où?(原題)』
2011年-『Where Do We Go Now?(英題)』
2014年-『リオ、アイラブユー』
2014年-「O Milagre(原題)」<未>
https://ja.wikipedia.org/wiki/カペナウム
新宿武蔵野館:15:50-18:05 (126分)
INTERVIEW
ナディーン・ラバキ―監督インタビュー
―― なぜ『Capharnaüm(カペナウム)*』という題名を付けたのですか?
私の意識していないところで、題名が自ら名乗り出てきたという感じだった。この作品について考え始めていた頃、私の夫のハーレドが、取り上げたいテーマや、自分が夢中になっていることを全て書き出したらいいと言ってきた。私たちの居間の真ん中にあるホワイトボードにね。私はいつもこの方法でアイディアをふくらませていく。その後、しばらくして、ホワイトボードを見直していた時、「それらの総体性が、まさにカペナウムであった。これは、カペナウムの映画よ」って夫に言ったのです。
*アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。
―― 最初にホワイトボードに書き出したのはどんなテーマでしたか?
私が映画を作る時はいつも、「すでに確立しているシステム」と、「その矛盾」を問う必要性があると思っている。さらに、「その代わりとなるシステム」を想像する必要もある。 当初、私の頭の中にあったテーマは、不法移民、不当な扱いをされる子供たち、移民労働者、国境という概念とそのばからしさ、自分たちの存在を証明するために紙切れ(証明書類)が必要であるという事実、必要であらばその書類を無効にすることもできるという事実、人種差別、相手に対する恐怖、子どもの権利条約への無関心…
―― しかし、あなたは今回、幼少時代に焦点を当てることにしましたね?
このブレインストーミングと並行して、不当に扱われている子供たちを中心に描こうという考えが生まれた。私がちょうど、こういったアイディアに取り組んでいた時期に悲痛な出来事があった。ある日の夜中の1時頃に帰宅する途中、赤信号で止まって車の窓から見下ろすと、母親の腕の中で半分、寝かけている子供が見えた。母親は、路上で物乞いをしていた。一番、私にとって衝撃だったのは、その2歳児が泣いていなかったということ。とにかく眠りたい、という感じだった。彼の目が閉じていくイメージが頭から離れなくて、帰宅した後、その残像をどうにかしたいと思った。そこで、大人に向かって叫んでいる子供の絵を描いたの。自分からすべての権利を奪っていく世の中に自分を産み落とした親を憎んでいるかのように親を罵倒している子供の顔をね。そこから、この作品のアイディアはどんどん膨らんでいった。子供時代を出発点にした。人生が形成されるのは明らかに子供時代なわけだから。
――あなたの作品は、基本的に人々にどういった「行動」を促しているのでしょう?
第一に、映画は疑問を投げかけるためのツールだと思っている。私が生きている世界に対する私の見方を表現しながら、現代のシステムについて自分自身に問いかけるもの。 私の映画は――特に今回の『存在のない子供たち』は、目を逸らしたくなるような生々しい現実を描いている。私は、映画の力を信じていると同時に、大変な理想主義者でもある。映画には、たとえ何かを変えることはできないとしても、少なくとも、何かの話し合いのきっかけになったり、人々にとって考えるきっかけになると確信している。 路上で見かけた子供の運命をただ嘆き悲しんで、さらなる絶望感に襲われる代わりに、私の職業を武器として利用し、あの子供の将来に何かしらの影響を与えられることを願うことにした。少しでも現在の状況を人々に知ってもらおうと。引き金となったのは、ベイルート(やその他の大都市)の裏の顔にスポットライトを当てなければならない、自分たちの定められた運命かのように極貧生活から逃れることのできない人たちの生活の中に潜入しなければならない、という私の使命感。
―― 出演している役者たちは、物語の登場人物と似たような境遇にいる人達ばかり。なぜ、このようなキャスティングをしたのですか?
ゼインの演じる役は、ゼインの実際の境遇と似ている(いくつかの点で)。その点ではラヒルも同じ。彼らは、戸籍を持っていない人達。ゼインの母親に関しては――16人の子供を持つある女性がモデルで、映画と同じような状況下で暮らしていた。そのうちの6人は死んでしまった。その他の子供たちは、彼女には育てることができなかったから孤児院に預けられた。ゼインの母親を演じた女性も、実際に自分の子供たちに食事として与えているのは砂糖と角氷。今回のキャスティングは、裁判官でさえも、本物の裁判官を使った。私だけが自分とは違う人間を演じていた。だからこそ、私の役(ゼインの弁護士)は最小限にとどめたかった。 アクティングで使う「プレイ(演じる)」という言葉は、私にとっては問題。特に今回の映画では、全く偽りがないことが非常に重要だったから。ある人たちにとっては、この映画は彼らの大義名分のための旗印の役割をする。だから、偽りがないものにすることは、その人たちに対する私の義務だった。この映画で描く状況を、演じる側もちゃんと理解していることが重要だった。それは、彼等が自分たちの目指すものについて語るときに、ある種の正当性を持って語ることができるようにね。でなければ、こんな重い人生を背負いながら地獄のような場所で生きている人たちを、役者が演じるのは無理だったと思う。 私はこの映画には何かしらの力が働いていたと確信しているのだけど、すべてが最終的にうまくまとまったから。私がキャラクターを生み出していくと、その人物が実際に路上に現れ、キャスティング・ディレクターが彼らを見つけ出してくれた。私は、演者たちに「ありのままでいい」と言い聞かせただけだった。彼らの中にある真実だけで十分だったから。私は彼等に魅了された。彼等そのものの虜になってしまいそうだった。彼等の話し方、反応の仕方、動き方すべて。この映画が自分を表現する場になってくれたという意味では、とても嬉しかった。彼らの苦しみを、表に出すことができたのだから。
―― この映画をドキュメンタリーと考えますか?
私がリサーチ中に目撃し、経験した事柄を盛り込んだフィクション。ファンタジーでも、想像したものでもない。それとはむしろ真逆で、映画の中で見る光景は、私自身が貧困地域、拘置所、少年院を訪れた結果を表している。私は一人でそれらの場所を訪れた。この映画を撮影するまでに3年間のリサーチ期間が必要だった。このテーマを自分なりに消化する必要があったし、その状況を実際に生きたかのように、自分の生の目ですべてを見たかった。撮影は、街の貧困地域で、今まで同じような悲劇を何度も目撃してきた壁の間で行われた。セットは最小限にとどめ、役者たちには、「飾らず、ありのままで」ということを伝えた。 作品をよりよくするために、彼らが体験する出来事だけは演出した。だからこそ、撮影は6ヵ月もかかって最終的に収録テープが520時間にもなってしまった。
―― 『存在のない子供たち』はレバノン映画だと考えていますか?
プロダクションと撮影場所を考慮したら、これは間違いなくレバノン映画。でも、物語自体は、基本的な権利が与えられず、教育、愛までも受けることができない全ての人たちへ向けたもの。この登場人物たちが生きる暗い世界は、来るべき時代を表すもので、世界中にある大都市すべての行く末なのです。
―― 今後、この映画を通してどのようなことを達成したと思っていますか?
不当に扱われ、放置された子供たちを守ってくれるような仕組みの基礎を築くような法案作りを促すことができればいいな、というのが私の究極の夢です。
https://numero.jp/interview158/
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/467923288.html