予告編
19世紀末のオーストリア・ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムトとエゴン・シーレの没後100年にあわせて製作されたドキュメンタリー。官能的でありながら、常に死の匂いを感じさせる作品を残したグスタフ・クリムト。クリムトから強い影響を受けながらも新たな表現を模索し続けたエゴン・シーレ。19世紀末のウィーンで花開いたサロン文化と、彼らの作品から匂い立つ官能性と愛に満ちた作品群をさまざまな映像群によって俯瞰し、彼らの生きた時代、そして2人の作品の魅力をひも解いていく。イタリアの新進俳優ロレンツォ・リケルミーがナビゲーター役を務め、ケンブリッジ大学で美術史を修めた女優でモデルのリリー・コールもコメンテーターとして出演する。日本語版ナレーションは柄本佑が担当。
INTRODUCTION 解説
世紀末のウィーンで起きた思想の変革。クリムトとシーレが与えた影響とは?
「時代には芸術を、芸術には自由を」
これはグスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家グループ「分離派」が、1898年に自ら建てた展示施設の分離派会館(セセッション館)の入り口に金文字で掲げたモットーである。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンでクリムトとエゴン・シーレは人間の不安や恐れ、エロスを描いた新しい絵画の手法を通じて、それまでの絵画とは異なる革新的な芸術作品を次々と生み出していった。金箔を多用し、妖艶で死の香りを漂わせるファム・ファタルを多く手掛けたクリムト。ねじ曲がった体躯と苦悶に満ちた表情で克服できない傷みを描いたシーレ。異端なテーマは精神医学者ジークムント・フロイトが辿り着いた精神分析の誕生と時を同じくして起こった。それと同時に、音楽、建築、文学にも新しい概念が見出され、女性たちはコルセットを脱ぎ捨て、自立を主張し始める。封建的なウィーンで抑えられていた人々の衝動は一気に爆発したかのように社会秩序を揺り動かし、自我の深い本質への対峙の始まりとなったのだ。
日本でも展覧会の開催で注目される世紀末ウィーンを、一流陣が新たな視点で解説。
本作ではクリムトやシーレの傑作を所蔵するウィーンを代表するアルベルティーナ美術館、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、美術史美術館、分離派会館、レオポルド美術館、ウィーン博物館、ジークムント・フロイト博物館を巡りながら、ウィーンの黄金時代の始まりと終わりを解説する。コメンテーターはノーベル生理学・医学賞受賞者のエリック・カンデル、大学で美術史を専攻した女優でモデル、そしてケンブリッジ大学で美術史を修めた女優兼モデルのリリー・コール、世界的ピアニストのルドルフ・ブッフビンダー 、美術史家のジェーン・カリアなど各界で活躍する一流の芸術家や歴史家たちだ。ナビゲイターはNetflixドラマ「マルコ・ポーロ」シリーズ(14~16)の主演で知られるイタリアの新進気鋭の俳優ロレンツォ・リケルミー。日本語ナレーションは『きみの鳥はうたえる』(18)などでキネマ旬報ベスト・テン主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞に輝いた若手実力派俳優の柄本佑が担当する。
日本では今年4月から「クリムト展 ウィーンと日本 1900」などが開催され、多くの美術ファンが詰めかけている。なぜ今も、クリムトとシーレの作品がウィーンから遠く離れた日本でも人々を魅了するのか。名画に隠されたウィーンのカオスを多角的に目撃できる美術史ドキュメンタリー。ついに開幕!
https://eiga.com/news/20190608/5/
公式サイト:http://klimt.ayapro.ne.jp
https://this.kiji.is/508415468107449441?c=39546741839462401
ミシェル・マリー/監督
Michelle Mally
「Cafe La Mama 」(93)に編集者として映画界に入る。01年にテレビのドキュメンタリー番組「Appuntamento con la storia」で初監督。『ヒトラーvs.ピカソ』(18)で美術を担当。本作が映画初監督作となる。
J&B:10:55-12:35 (95分)
グスタフ・クリムト
Gustav Klimt
世紀末ウィーンを代表する画家。ウィーンの美術工芸学校に学ぶ。初期にはアカデミックな作風で才能を認められ、劇場の壁画装飾などで名を馳せる。1897年に保守的なウィーンの画壇から離脱し、「ウィーン分離派」を結成。自ら初代会長として分離派会館を中心に多くの展覧会を開催しながら、新しい造形表現を追求した。同世代の芸術からと共に、絵画、彫刻、建築、工芸の融合を目指す総合芸術を志向する。エゴン・シーレら次世代の画家達にも多大なる影響を与えた。
エゴン・シーレ
Egon Schiele
クリムトと同じ美術工芸学校を卒業後に、16歳でウィーン美術アカデミーに進むが、クリムトに弟子入りを志願し退学する。その後、身体の歪みや内省、欲望と悲劇の表情に魅せられ、多くの自画像や肖像画を制作するようになる。11年4月にウィーンで開催した初の個展で注目を浴びるが、12年4月13日、未成年の少女に対する性犯罪の容疑で逮捕される「ノイレングバッハ事件」が起きる。28歳で死去するまでの10年間で300点もの絵画と数百に及ぶドローイングを制作した。
◆ウィーン分離派
1897年にクリムトをリーダーとして、当時のアカデミズムを代表するウィーン美術家協会から独立、脱退したメンバーで構成。絵画や彫刻に加え、デザインや工芸、建築といった芸術の諸分野を一体化する総合芸術の構築、海外の同時代芸術の展示、紹介を目指した。
◆ウィーンのカフェ文化
2011年にはユネスコ無形文化遺産に登録された「ウィーンのカフェ文化」。1683年にオスマン帝国がウィーンを包囲の際に残されていたコーヒー豆を使い、カフェが始まったと言われる。カフェ文化が花開いたのは19世紀。1873年に開催された万国博覧会後のバブル崩壊で住宅難に陥った中、1杯のコーヒーで何時間でも利用できるため文人、芸術家、学生たちがリビング代わりにカフェを利用し、情報発信の場であり社交の場となった。作中で紹介されるカフェ・セントラルは文人カフェとして当時の雰囲気を残す老舗として愛されている。