1944年に旧日本軍の慰安婦となった朝鮮人女性ペ・ポンギは、本土復帰後の1975年に、沖縄ではじめてそのことを証言する。慰安所となった沖縄・渡嘉敷島の「赤瓦の家」で、彼女の生活と人間関係、戦後に朝鮮半島に戻れず取り残された状況とその後が語られる。
http://www.labornetjp.org/news/2018/0923yama
http://www.labornetjp.org/news/2018/0302yamatani
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/08/12/101218
UPLINK:13:30-15:00 (86分)
https://shibuya.uplink.co.jp/event/2019/53797
あんにょん日韓
http://ianfukangaeru.blogspot.com/2012/05/blog-post_03.html
15:00-15:30 山谷哲夫監督トーク(30分)
https://ja.wikipedia.org/wiki/山谷哲夫
『沖縄のハルモニ大日本売春史』編著晩声社ルポルタージュ叢書1979
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韓国社会が記憶できていない裴奉奇<ぺ・ポンギ>ハルモニ(1914~1991)は、朝鮮半島出身の女性の中で、自らが元慰安婦であったことを初めて明らかにした人物だ。裴ハルモニは1914年9月に忠清南道礼山郡シンレウォン里で生まれ、1991年10月18日に那覇市まえばし2丁目で亡くなった。写真は、ハルモニの晩年に家族のように面倒を見た在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部の専従だった金スソプ(74)、金ヒョノク(73)さん夫婦と一緒に外出をした時に撮った写真だ。金さん夫婦は、写真を撮った正確な日時と場所は覚えていない。裴ハルモニは、韓国社会で本格的な慰安婦運動が始まるきっかけとなった金学順<キム・ハクスン>ハルモニの初めての証言が出るおよそ16年前の1975年に、共同通信など日本のマスコミを通じて、自分が慰安婦であったことを公表した。しかし、裴ハルモニの証言は社会の幅広い反響を呼ぶことができず、すぐに人々の記憶の中から忘れられてしまった。私たちはなぜハルモニを記憶から消したのか。その糸口を探るために、裴奉奇ハルモニが慰安婦生活を強要された沖縄の小さな島、ハルモニが住んでいた小さなあばら家、ハルモニが息を引き取った村を訪ねてみた。そこで発見できたことは、自分が受けた被害を隠したまま生涯を終えなければならなかった数多くの被害女性たちのうら寂しい後姿だった。
日本軍が敗れて腹が立つと言ったハルモニが天皇の謝罪を語った
自分が日本軍慰安婦だったことを最初に公表した裴奉奇ハルモニは、1945年8月15日に日本が敗戦した後も、帰国を選ぶよりも沖縄に残った。以後、自分の身上が知られるようになる1975年10月頃まで、言葉も通じない遠い異国の地を転々としながら一人で生きた。ハルモニはなぜ、戦争が終わった後、故国に帰る代わりに見知らぬ異国の地に残ったのか。ハルモニは生前、あるマスメディアとのインタビューで「戦場での『仕事』が恥ずかしくて本国に戻れなかった」と語っていた。裴ハルモニを記憶する人々は、「ハルモニは本当にさっぱりとした方だった」と回想している。
「あんた、×××撮っているの?」
寂れた漁村の路地を彷徨いながら手当たり次第に写真を撮っている記者の背後から、だしぬけに鋭い声が聞こえてきた。日本語と沖縄方言が混じったような独特の文章で正確な意味は分からなかったが、大体の意味は想像できた。後ろを振り返ると、70代後半くらいの1人の老婆が険しい顔つきで記者の顔を見つめていた。「お前は何者で、他人の家の写真を勝手に撮っているのか」という抗議の目つきだった。
先月26日の午前11時、沖縄本島の中心都市である那覇市の泊を出発した499t(定員450名)ほどの旅客船<フェリー渡嘉敷>は、西に1時間20分航路をとって、慶良間諸島の最大の島である渡嘉敷島に到着した。容赦なく照りつける沖縄の真夏の日差しの下、島の中心地である渡嘉敷村は、低く横たわっていた。休日のため村の公共施設はすべて門を閉ざしたままで、手にした物は20年余り前に撮った白黒写真1枚だけだった。そこで必ず探し出さなければならない建物があった。
「この村に、以前、日本軍の慰安所があったという話を聞きました。場所がわからなくて1時間ほど迷っているんです。」
「よくわからんね。」
老人が沖縄の日差しに赤く日焼けした記者の顔をじろりと睨んだ。
「あそこの空き地だよ。私らはよくわからん。知っていたとしても3,4歳の頃のことだよ。話だけ聞いた。あそこに慰安所があった。」
彼女が指さした空地の前に着いて、20年前の写真と現在の様子を照らし合わせてみた。少し離れた山の稜線と、前方の家の屋上に向かう階段の位置が正確に一致した。渡嘉敷港から歩いてほんの3分。1944年11月から1945年3月末までここにあった「赤い瓦屋根の家」で、裴奉奇(1914~1991)ハルモニを含む朝鮮人女性7名が日本軍によって慰安婦生活を強要された。現在、空地には1台の廃車が放置されており、反対側の垣根の上には「本の中では家族旅行もできるよ」という意味不明な文字が書かれていた。
朝鮮半島出身の慰安婦被害女性の中で、自身の経験を初めて証言した人物
慰安婦運動の決定的な契機となった1991年の金学順ハルモニの証言より16年前なのに、私たちはなぜ知らないのか沖縄が日本に返還された1972年、字が書けないので書類の手続きができずに追放の危機慰安婦として沖縄に来ることになった事情を知人に告白し、嘆願書を提出隠しておきたかった個人史が明らかになるきっかけ