予告編
アラン・ドロンとのデュエット曲で一世を風靡したフランスの歌姫ダリダ。愛に向かって生きたその生涯を、数々の名曲と華やかなファッションで描く。
イタリア移民の家系でエジプト・カイロに生まれ育った少女ヨランダ(スヴェヴァ・アルヴィティ)。幼い頃は、眼鏡姿をいじめられ自分はブスだと思いこんでいたが、16歳で自分を苦しめていた眼鏡と決別する。
数年後、ヨランダは「ダリダ」として、ミス・エジプトの栄冠に輝いた美貌とエキゾチックな歌声で、フランス全土に社会現象を巻き起こし、スターの座に上りつめていた。ビジネスパートナーのルシアン(ジャン=ポール・ルーヴ)には妻がいたが、ふたりは愛し合いやがて結婚する。
ダリダには“夫と子供を持つ夢”があったが、ルシアンはダリダのキャリアを優先してしまうのだった。結婚からわずか1か月後、画家のジャン(ニールス・シュナイダー)と新たな恋におちる。不倫をしたダリダへの世間の風当たりは強かったが、弟のブルーノ(リッカルド・スカマルチョ)のサポートもあり、歌手として成功を収め、元夫のルシアンとも友人としての絆を取り戻していく。
新恋人のイタリア人歌手ルイジ・テンコ(アレッサンドロ・ボルギ)と過ごす音楽祭の夜、スターとしてステージに立つダリダの影で、一次審査で落選したルイジは絶望し、「人間は死に向かって生きる存在だ」という尊敬するハイデガーの言葉を実行してしまった―。絶望から立ち上がったダリダは、アラン・ドロンとのデュエット曲「あまい囁き」が大ヒットし、“ドロンとの熱愛発覚”と騒がれた時も、新恋人のリシャール(ニコラ・デュヴォシェル)に夢中だった。出会いと別れに傷つきながらも、その全てを歌にのせてステージで輝き続けるダリダ。しかし、再び悲しい別れが待っていた――
公式サイト:http://dalida-movie.jp
監督・脚本:リサ・アズエロス
1965年フランス生まれ。母は『太陽がいっぱい』などに出演した女優マリー・ラフォレ。TVシリーズの脚本家としてキャリアをスタートし、脚本も手掛けたヴァンサン・カッセル出演『Ainsi soient-elles』(95)で監督デビュー。その後、ソフィー・マルソー主演『LOL(ロル) ~愛のファンタジー~』(08)の監督・脚本を務め、モンテカルロ・コメディ映画祭審査員賞を受賞。再びマルソーを主演に迎えた『ソフィー・マルソーの秘められた出会い』(14・未)では、製作、監督、脚本、出演を果たす。また、ジャン=フランソワ・リシェ監督、ヴァンサン・カッセル主演『避暑地で魔が差して』(15・未)の脚本も担当する。
角川シネマ有楽町:13:05-15:20 (127分)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリダ
https://en.wikipedia.org/wiki/Dalida
デリダについて
1933~1945年| 0~12歳| 誕生~幼少期
1933年1月17日、エジプトのカイロに生まれ。本名ヨランダ・クリスティーナ・ジリオッティ。イタリア移民の家系で、父・ピエトロはバイオリン奏者。母・ジュゼッピーナ、兄・オーランド、弟・ブルーノの5人家族。幼い頃に目の手術を受け眼鏡をかけて過ごす。父はダリダが12歳の時に病死。
1949~1954年| 16~21歳
ミス・オンディーヌ&ミス・エジプト
自分を苦しめていた眼鏡と決別。1952年、ミス・オンディーヌの美人コンテストと、ミス・エジプトコンテストの栄冠に輝く。9月、スクリーンデビューし「デリラ」という芸名になる。
1955年| 22歳| パリへ ~ “ダリダ”誕生
単身パリへ渡る。「ダリダ」と名乗り、生活のためにキャバレーで歌い始める。
1956年| 23歳| ルシアンとの出会い
1956年4月9日、オランピア劇場で行われた「明日のナンバーワン」という新人コンテストで、ヨーロッパ1ラジオ局の芸術監督ルシアンが、舞台に立ったダリダに一目で虜になる。
1956~1957年| 23~24歳| バンビーノ現象
1956年8月28日、「Madona」でデビュー。続いて「Le Torrent」を発表。さらにデビューから2か月後の10月28日、「バンビーノ」を発表。3週間で30万枚の大ヒットとなり、ゴールドディスクを受賞。今日までの総売上数は4,000万枚。
1961年| 28歳| 結婚
1961年4月18日、5年間関係が続いていたルシアンと結婚。しかし1ヶ月後、ポーランド人の画家ジャン・ソビエスキーと出会い恋に落ちる。ルシアンはラジオでダリダの曲を流すことを拒否し、復讐をした。
1961年| 28歳| 成功
1961年12月6日、オランピア劇場でのショーが大成功し、エディット・ピアフからは「私の次はあなたよ」と賛辞が贈られた。モンマルトルに6階建ての家を購入。生涯その家に住み続けた。
1966年| 33歳| ルイジとの出会い
1966年夏、イタリア人歌手のルイジ・テンコと出会う。同年9月に再会し恋人同士になるが、2人の関係は世間には秘密だった。
1967年| 34歳| 最初の悲劇
1967年1月27日、ルイジが、サンレモ音楽祭の一次審査で落選し、その後ホテルで拳銃自殺。2月26日、ダリダは睡眠薬で後追い自殺を図るが、5日間の昏睡状態の後、一命をとりとめる。
1967年| 34歳| 18歳の彼
1967年12月、12歳年下のイタリア人青年ルチオに出会う。ダリダは妊娠したが父親になるには若すぎると、ルチオに黙ったまま中絶。後に手術のせいで子供を産めない体になってしまったことを知り、生涯悔いた。1974年1月18日に発表された「18歳の彼」の歌詞の裏には、この秘密のラブストーリーがあった。
1970年| 37歳| 新たなスタート ~ 別れ
1970年7月1日、弟・ブルーノがプロデューサーとなり、インターナショナル・ショーという会社(のちのプロダクションズ・オーランド)を設立し新たなスタートを切る。同年9月11日、元夫のルシアンが拳銃自殺。愛する人の自殺が2人目となる辛い出来事だった。
1972年| 39歳| サンジェルマン伯爵
1972年10月21日、サンジェルマン伯爵の生まれ変わりで錬金術と名乗るリシャール・シャンフレーに出会い、情熱的な恋に落ちる。ある晩、リシャールが強盗と勘違いし家政婦の恋人を銃で撃ってしまうが、ダリダが保釈金を支払い、執行猶予付きの1年の実刑と罰金となり、ダリダの元に帰ってきた。
1973~1974年| 40~41歳| あまい囁き
1973年1月17日、ブルーノがイタリアから持ち帰ってきた「Parole, Parole(あまい囁き)」をアラン・ドロンとデュエットし全世界で大ヒット。1974年2月18日、「愛するジジ」を発表、12カ国のヒットチャートのトップになる。
1976~1979年| 43~46歳| ディスコ
昔の曲をディスコビートにアレンジしたアルバムを次々に発表。1979年6月15日、「Laissez-moi Danser」でプラチナを達成。46歳で、パレ・デ・スポールで18回にわたる大規模なショーを開催。4,000人の観客の前で連日舞台に立った。
1981~1983年| 48~50歳| 3度目の悲劇
1981年、破綻していたリシャールとの関係が終わりを迎えた。2年後の1983年7月20日、リシャールが自殺。ダリダはついに3人も愛する人を自殺で失ってしまった。
1986年| 53歳| 故郷カイロへの凱旋
1986年9月29日、故郷カイロで、ユーセフ・シャヒーン監督『The Sixth Day』のプレミアが開催。主演のダリダの姿に300万人ものエジプト人が熱狂し成功を祝った。
1987年| 54歳| 最後の別れ
1987年5月3日、枕元に「人生に耐えられない。許して。」と遺書を残し、自宅の寝室で睡眠薬を服用し自殺。享年54歳。
Bésame mucho (”Kiss Me Much”)
Bésame, bésame mucho, Como si fuera esta noche la última vez. Bésame, bésame mucho, Que tengo miedo perderte, perderte después. |
私にキスをして、たくさんキスをして 今夜が最後かもしれないから 私にキスをして、たくさんキスをして あなたを失うのが怖い、この後あなたを失うのが怖い |
Quiero tenerte muy cerca, Mirarme en tus ojos, verte junto a mí. Piensa que tal vez mañana Yo ya estaré lejos, muy lejos de tí. |
あなたを抱きしめたい あなたの目を見て、私の隣にいるあなたを 私はたぶん明日あなたと別れ とても遠い遠いところへ行かなければならないから |
Bésame, bésame mucho, Como si fuera esta noche la última vez. Bésame, bésame mucho, Que tengo miedo perderte, perderte después. |
私にキスをして、たくさんキスをして 今夜が最後かもしれないから 私にキスをして、たくさんキスをして あなたを失うのが怖い、この後あなたを失うのが怖い |