この映画の登場人物はあらゆる意味でごく「普通」の人でなければならなかった。モロッコの父子も、素人の人たちが、その普通性をよく表現していた。モロッコの観光客であった白人夫婦も普通の英語人である必要があった。その点において、普通であることを演じたケイト・ブランシェットとブラッド・ピットの演技は特記されるべきであろう。メキシコでのガエル・ガルシア・ベルナルとアドリアナ・バラッザも、これまでに出演したイニャリトゥの他の作品と同様に、ごく普通のメキシコ人を演じていた。また東京砂漠では、父親役の役所広司が、普通の日本人男性を上手に演じていた。(ほとんどTV番組「ガイアの夜明け」の司会者そのままの日本人男性がそこにいた。)ところが、東京砂漠のコギャルだけは、普通の女の子ではなかった。普通の女の子だったら、関係性喪失の悲劇を経験することもできたであろうが、現代のバベルの塔とおぼしき「東京砂漠」のコギャルには、親子関係(父子関係、母子関係)も、友人関係も、男女関係も、支援関係(サポート関係)も何もないのである。東京砂漠の高層ビル(億ション)の一室には、関係性不在の生活空間が広がっていた。この普通ではないコギャルを見事に演じ切った菊池凛子の「演技」に、注目が集まったのもうなずける。
イニャリトゥ監督の「バベル」の塔の現代版として東京砂漠が選ばれ、コミュニケーション不全を体現したコギャルとして他ならぬ日本人女性が選ばれてしまったこと、そしてイニャリトゥ監督の世界を視る眼の確かさに気付いた日本人はそれほど多くはないようだ。だがたとえ日本人が気付いていなくとも、「イニャリトゥ主義」の映画においては、人間関係の不在が一つの人間ドラマとしてしっかりとドキュメントされているのだ。その描写の場所として日本の東京が選定されているのは偶々のことなのか、あるいは「イニャリトゥ」的直感なのか。イニャリトゥ主義の偶然=たまたま=アクシデントとは、現代社会の人間ドラマを結びつけている中心的特異点なのである。
『バベル』という映画から得られる社会学的な答えとは、関係性の不在をドキュメントすることによって「人と人を結び付けるもの」という問いが存在していることに気付かせてくれることなのかもしれない。そして日本社会が、関係性の不在という「人と人を結び付けるもの」の欠如している世界になっている没社会学的空間であることも、同時に教えてくれている。だたし当の関係性不在の日本人は、『バベル』以降も、世界のアクシデントからは何も影響を受けずに、(没社会学的な)日本社会・バベルの塔の中にいるだけなのだが。
『バベル』
|椎野信雄