さて話を映画『バベル』に戻そう。これまでのイニャリトゥ監督作品と同じように、映画の中で何が起こっているのか、すぐには分からないような構成になっている。「バベル」というタイトルが暗示するかのように、どこか中東あたりの風景を思い起こさせる荒涼とした砂漠地帯の岩山が映し出され、その村に住んでいる一家の行動が描写される。父と母と、兄と弟と姉の家族である。父は、ヤギの遊牧で細々と生計を立てている。父は、ヤギをジャッカルから守るために、知り合いからライフルを一丁譲り受け、そのライフルを息子たちに手渡す。二人の息子たちは、早速、山に行き試し撃ちをする。隙を見ては姉の着替え姿を覗き見する弟は、マスタベーションも手慣れたものだ。目ざとい弟は銃の扱いも兄より上手である。弟は腕前を見せびらかすかのように、岩山の下の曲がりくねった砂漠の山道を走る観光バスに狙いを定めて引き金を引く。だがバスはしばらくの間は何ごとも無かったかのように走り続ける。
場面は変わり、ナニーをしているチカーノの女性に電話がかかってくる。彼女は英語で応答している。なんだか予期せぬ事態が生じているようで、主人の帰りが遅れるらしく子どもの面倒を頼まれてしまっているようだ。そのナニーは途方に暮れている。
白人の英語人の夫婦が、砂漠地帯を旅しているらしい。二人の会話はどこかぎこちなく、何かわだかまりがあるみたいだ。夫は無頓着を装っているが、妻はその夫の態度にイラついており、夫婦関係の終焉を予感しているみたいだ(ちょうど、『21グラム』のポールと妻のように)。その二人は、観光バスに乗り、荒涼とした砂漠地帯の山道を移動していた。その時、バスの窓際の席に黙って座っていた妻をめがけて銃弾が飛び込んできた。妻の肩から血が流れ、隣に座っていた夫は、事態に気付くとバスを止めるように叫んだ。バスは観光ルートを外れ、砂漠地帯の村落に医者を求めて再び走り出した。観光ルートを外れたことで、他の白人観光客たちが身の危険を感じ、パニック状態になり、騒然となる。バスがたどり着いた村落の人たちは、予期せぬ来客を受け入れ、血まみれの妻に最善のケアを施してくれる。だが他の観光客たちは、元の観光ルートの戻りこの危機を脱することしか眼中にない。
再び画面は変わり、チカーノのナニーは、明日、故郷で行われる自分の息子の結婚式に出席するために、どうしてもメキシコへ帰らなければならない。それなのに子どもたちの両親は帰国せず、あいにく他に預ける所も見つからず、結局二人の子どもも、甥っ子の運転する車で危険を覚悟でメキシコに連れていくことになる。
場面は東京に移り、バレーボール大会の後、父親の車で帰途につく聾唖の女子高校生が映し出される。父と娘の会話は喧嘩越しである。母を亡くしたばかりのような女子高校生は、東京の繁華街を、特異なコギャル・スタイルで跋扈する。彼女にとっては、椅子に座りノーパンのミニスカートの股間を男の子に見せることがコミュニケーションの取り方のようだ。この親子の住む豪華なマンションに、父を訪ねて刑事と称する男たちが近付いていく。父親は、またもや妻の自殺に関する聞き取りなのかと苛立ちを隠せないが、彼名義のライフルについての聞き取りだと伝えられる。件のライフルは、ハンティングでモロッコを訪れた際に、ガイドの男にお礼にあげたものと説明するのだった。
こうして映画が展開していく中で、三つの物語を少しずつ理解し始めた観客には、この映画が「砂漠」地帯を背景にした親子の物語であることが分かってくるはずだ。最初の砂漠は、アフリカ北部のモロッコの「サハラ砂漠」であり、二つ目はアメリカ合衆国カリフォルニア州とメキシコ合衆国の国境付近の砂漠、そして三つ目の砂漠は「東京砂漠」である。アトラス山脈沿いに住む親子は、家父長たる父と二人の息子である。ライフル事件の真相を息子たちから聞いた父親は、3人で岩山沿いに逃げたが、警察の執拗な追跡の中、弟が発砲し兄が銃で撃たれてしまう。寒村でごく普通の父子関係を営んでいた彼らは、父が生活のために与えたライフル銃によって、人を傷つけ、自らも銃の犠牲になってしまう。この事件は、西洋のマスメディアによって、一方的にテロリズムに仕立て上げられるが、事の真相は、ライフルを手にしてしまった貧しい村の父子の悲劇だったのである。この事件によって一つの父子の関係性が失われる。
メキシコの砂漠では、国境をめぐる悲劇が繰り広げられている。息子の結婚式を無事終えて、帰路についた時に悲劇は起こった。酒を飲んで車を運転していた甥は、国境の検問所で暴走してしまう。国境を違法に強行突破してしまった車は、そのまま砂漠地帯に入り込み、甥はナニーである叔母と子どもたちを置き去りにし立ち去る。息子の結婚式を成功裏に終えた母親は、愚かな行為によって雇い主の子どもたちを死の危険にさらし、ナニーの職と、アメリカ在住の生活を棒に振り、メキシコに強制送還され息子の元に戻る。映画の冒頭の方で、チカーノのナニーに電話をかけてきた子供たちの親とは、モロッコ旅行中に事故に遭遇した白人夫婦であることが描写されていた。このナニーにとっての悲劇は、白人家庭の子どもたちと築いてきた関係性を、一瞬にして失ってしまったことだ。
「東京砂漠」の親子は、母のいない父と娘である。生前に母と娘はどのような関係だったのか、父と娘はどのような関係だったのか全く描写のないまま、コミュニケーション不全を象徴するかのような言葉のディスコミュニケーション(手話と口話と話し言葉と書き言葉のギャップ)がドキュメントされている。「東京砂漠」の描写は、娘が歩き回る渋谷の街の姿、無機質な高層マンションの生活感のない室内(インテリア)、黒ずくめの服装の父親の歩き方に、よく表れている。「東京砂漠」の親子関係・人間関係には、コミュニケーション不全以前の何かが失われているのである。モロッコで撃たれたライフル銃の余波は、アメリカ合衆国やメキシコ合衆国の人々の人間関係に影響を与えていくが、日本の「東京」の人間関係には、何の影響も与えられていないのである。
「東京砂漠」で展開されたのは関係性の喪失ではなく、喪失すべき関係性そのものが成立していないという現象なのだ。バベルの「高塔」を彷彿させる高層ビルが映し出されるのは、この「東京砂漠」だけである。「東京砂漠」での悲劇は、コミュニケーション不全や関係性の喪失としてではなく、関係性の不在として描かれているのだ。女子高生のコギャルが聾唖であることは本質的なことではない。関係性の不在を体現するコギャルのコミュニケーション・スタイルが、身体(の部分)を裸のまま男に提示することでしか関係性の糸口をつくれないという形で表現されている。