一作目の『アモーレス・ペロス』は、メキシコシティを舞台に、ダウンタウンに住む裕福ではない家族、裕福なメディアとモデルの男女、元インテリの初老の男性の生活が、一つの交通事故現場の交差点で重なり合い、彼らの人間関係がドキュメントされていくのだ。メキシコシティは、メキシコ(合衆国)の首都で、政治・経済・文化・教育・通信の中心地である。戦後の経済発展の結果として、農村からの人口流入が進み、メキシコ人口約9800万人の約一割近く(約900万人)が連邦区に、都市圏では1400万人が住む世界一の人口過密大都市だが、都市問題としてのスラム・大気汚染・交通渋滞・住宅難・治安問題に直面している。アモーレス・ペロスとは文字通りには「犬のような愛」の意味である。Perroとは、形容詞で「惨めな」という意味もあるそうだ。それぞれの人間は、何らかの形で「犬」がいる生活を送っている。描写されるのは、ラテンの愛、人間の運命的パッションである。裕福でない家庭では、母(アドリアナ・バラッザ)、兄とその兄嫁(まだ学生らしい)、その二人の間に生まれた赤ん坊、そして弟(ガエル・ガルシア・ベルナル)が一緒に暮らしている。母は、(スーパーで働き、時に強盗を繰り返している)兄を溺愛し、その兄は妻を殴りDV関係にあり、そして兄嫁は(兄弟のような)義弟に悩みの相談話らしきことをもらすが、その弟は兄嫁に愛情を抱き、一人「駆け落ち」を夢想している。この家族の飼い犬は、闘犬となり弟のために資金を稼いでいる。ダウンタウンの闘犬場が一つの文化としてドキュメントされる中で、弟と、母・兄・兄嫁との関係のほころびが映し出されていく。そして弟は自暴自棄になり、瀕死の犬と車で逃走を計る(これが映画の冒頭シーン)。父が不在のこの家族には、家族間の関係性を結ぶ糸口がなく、「犬への愛」も断たれようとする時に、弟は暴走する車で交通事故を起こしてしまう。
弟の車が衝突した相手側の車には、今をときめくスーパーモデルの女性(ゴヤ・トレド)が乗っていた。彼女は妻子ある広告マンの男性と不倫関係にあり、男は妻子との別居を決意し、マンションで彼女と同居生活を始めた矢先のことだった。その男は、自分の家庭に「父親の不在」をもたらす夫であった。女の方は、交通事故で瀕死の重傷を負ったが何とか一命は取り留めたものの、車椅子での療養生活を余儀なくされた。マンションでは「愛犬」と一緒だったが、愛犬はリビングの床にあいた穴に落ちて出てこなくなってしまった。女はモデルとしての契約も失い、悪化した足も切断せざるを得なくなり、男とは喧嘩の日々が続いていたが、この男は床板を剥がし「愛犬」を救い出す。
交通事故のあった交差点には、ゴミの収集をしている初老の男の姿があった。元大学教授だが、反政府活動ゆえに妻子を捨てた過去をもつ。現在は、元警官から「人殺し」の仕事を請け負い、たくさんの犬たちと一緒に廃屋で暮らしている。殺害する相手を尾行するかたわら、一人の若い女もストーカーしていた。その女は、昔捨てた自分の娘であった。「父不在の」娘であったその女に、何かを許しを請うているかのようでもある。交通事故の現場に遭遇した初老の男は、若い男の乗った車にいた瀕死の犬を助けて、家に連れて帰り手当てをしてやった。元気を回復したその犬は、「闘犬」であったがゆえに、男の飼う犬たちをすべて噛み殺してしまうのだ。都会のど真ん中で初老の男と闘犬だった犬が寄り添っている。
映画では、ここに描写した三つの物語がオムニバス映画のように独立に語られるわけではない。「イニャリトゥ主義」は映像においても、音響においても、三つの物語を区別しながらも、三つの直線的な物語構成ではなく、時間と空間を交差させながら、モザイクのように人間ドラマの関係性を描いていくのである。この関係性をつなぐ一瞬の出来事(アクシデント=偶然=事故)を媒介にして、錯綜した現代世界の人間たちの関係性を描写しているのだ。
残念ながら『The Hire: Powder Keg』(2001)という作品は観る機会を逸してしまった。『Darkness』はオムニバス映画『11’09”01/セプテンバー11(September 11)の』一編で、11人の監督が「11分9秒1フレーム」という短編映画11本をつないで一つの作品に仕上げたものだ。プロデューサーは『WATARIDORI』のジャック・ペランである。『Darkness』は、まずこのオオムニバス映画の最初にスクリーンに「本編中音声のみのシーンがございます」と注意書きが映し出される、当該の作品である。11分の間、スクリーンはほとんど真っ黒なままである。黒い画面のまま、(アラビア語らしき)よく聞き取れない言葉が、まずは耳に入ってくる。それから銃声のような音がバン、バンと響き渡たり、一瞬、高層ビルの壁のようなものが映し出される。そして英語の気象情報のアナウンスが聞こえ、飛行機らしき爆音とともに、”Oh shit!”という言葉が耳に入り、世界貿易センターに異変が起こっており、炎や煙が出ているという報道の音声が流れ、飛行機に関する報道の途中で、隣の棟にももう一機が・・・、爆発がすごい、との報道の音声が流れ、再び高層ビルのフラッシュが映し出される。それから、今度は日本語による報道が流され、さまざまな言語による報道が始まった様子が声音だけで描写されていく。その後に高層ビルから落下するものが映し出される。人々がビルから飛び下りているとの報道があり、それが人の落下であることを確認する。ビルや機内に閉じ込められた人々が家族に電話で何が起きているかを知らせている声が始まり、飛行機の轟音の後で、貿易センタービルが崩壊したことを伝えるニュースの声が伝えられる。人の落下シーンが長く映し出され、世界貿易センタービルが崩れ落ちてしまった後の人々の怨念の声が耳に届くようになる。飛行音らしき機械音が次第に大きくなるが、その音の停止とともに、ビル崩壊の映像が無音で映し出される。最後に画面が再び暗くなり、遠くで各国の報道らしき音声がかすかに耳に届き、エンディング音楽で映画は終わる。それからアラビア語のメッセージおよび「Does God’s light guide us or blind us ?」というメッセージが画面に写し出される。
この短編の中で、映像として映し出されたのは、人がビルから落下しているシーンと、ビル崩壊のシーンだけであった。こうしたシーンをドキュメントしておくことが、世界貿易センターで起きたことの映像表現だと主張しているかのようである。それ以外は報道の音声(言葉)なのである。短編『Darkness』は、そのことだけを描いた作品だ。つまり人間ドラマを描く以前の、出来事=アクシデントそのもののドキュメントなのである。