ここで映画のタイトルについて触れると、『バベル』とは、あの「バベルの塔」のことである。バベルの塔とは、キリスト教の旧約聖書「創世記」に書かれている伝説上の高塔を指している。人類の堕落に怒った神(ヤハウェ)が、こらしめのために大洪水(人類の絶滅)を起こしたが、正義を体現する者として神に認められたノアは、神の指示に従って方舟を造ることで難を逃れた。神から新しい契約を授かった新しい人類の祖先(ノアの子孫たち)は、古代バビロニアの古都バビロンBabylon(イラクのバグダッドの南方約90キロあたりだと言われている、シナルという地の古都)において、同一言葉を話す民族の離散を防ぐために、天まで届く高塔のある町を建設することで有名になろうとした(約3000年前の話)。神は、高塔建立という神への挑戦のごとき行いの中に、人類の傲慢さや名声欲や野心を見て怒り、また同一言語を有する民族の結束力を畏れ、人類の同一言葉の使用を混乱(バーラル)させることで、お互いの言葉が通じないようにしてしまった。人類は、(バーラルからの語呂合わせによりバベルと呼ばれるようになった)この町から各地に離散をさせられ、町の建設は断念させられた。現代ではこうした伝説は、人類の言語の多様性の原因、民族間のコミュニケーション不全、人類の傲慢さへの神罰、悪の力の象徴としての混乱(=バベル)、人類の実現不可能な計画、などへの説明あるいは教訓として語られている。またこうした伝説のバベルの塔は、古代メソポタミアのバビロンのジッグラト(方形の聖塔/ピラミッド)を描いたものだという説もあり、この説にしたがって16世紀に(ピーテル・)ブリューゲル(大ブリューゲル)が「バベルの塔」を描き、「バベルの塔」のイメージは決定的なものになっていった。
映画『バベル』のテーマを、このタイトルから類推して、教訓として人類に課されたコミュニケーション不全という混乱だと解釈することはたやすくできる。人類の宿命としてのコミュニケーション不全によって、人びとは「心」を通わすことができず、バラバラになってしまった姿を描くことで、世界の混乱状態を示唆していると考えるのである。こうした解釈は、それほど的外れなものではないだろう。だが、「人と人を結びつけるものは何なのか?」この社会学的問いに対する映画『バベル』の答えは、一体どんなものなのだろうか?上記のテーマ設定だけなら、映画『バベル』は撮られる必要はなかったのではないだろうか。