映画評:バベル (2007年5月)
日本人女優・菊地凛子(きくちりんこ)が、第79回米アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたと1月23日に発表されて以来、日本のマスコミが取り上げるようになった映画『バベル』(原題Babel)が、4月28日(土)に一般公開された。残念ながら2月25日の発表の舞台では、『バベル』に出演したアドリアナ・バラッザも菊地凛子も受賞をのがし、助演女優賞は『ドリームガールズ』のジェニファー・ハドソンの頭上に輝いた。作品、監督、助演女優、脚本、編集、作曲の6部門でノミネートされていた『バベル』だが、結局グスターボ・サンタオラヤ(最優秀作曲賞)だけがオスカーを手にすることができた。アカデミー賞以前に菊地凛子は、第78回米映画批評会議賞(National Board of Review Awards)の第6回新人女優賞(ブレイクスルー・パフォーマンス女優賞)を受賞し、またゴールデングローブ賞にもノミネートされていた。
1981年、菊地百合子(本名)として神奈川県で生まれた菊地凛子は、1996年に芸能界にデビューし、1999年に新藤兼人監督の『生きたい』で映画に初出演した。その後、熊切和嘉監督の『空の穴』(2001)、そして浅野忠信監督の『トーリ』(2004)などに出演し、一部では注目されていた女優だ。2004年5月、現在の菊地凛子に改名した。菊地凛子としての活躍は、「千葉ロッテ」マリーンズファンには「四番DHよしこ」さん(ロッテグリーンガムのテレビCM)として、そして「勝利の女神」として知られていた程度の知名度だったが、RINKO KIKUCHIの名は、映画『バべル』によって、一挙に世界の映画ファンに知れ渡ることになった。
基本的に「日本人」のことにしか関心がない日本のマスコミは、米アカデミー賞に日本人の名前がノミネートされただけで大はしゃぎだった。そうしたマスコミ報道で、かならず引用されたのが、日本人オスカー女優第1号という「ナンシー梅木」の名前だった。1957年のマーロン・ブランド主演の『サヨナラSAYONARA』(ジョシュア・ローガン監督)で、(日本人カテゴリーだけでなく)英米以外の俳優、東洋人俳優として初のアカデミー助演女優賞(1958)を獲得した女優だ。映画『サヨナラ』は、朝鮮戦争下における米国軍人と日本人女性の悲恋物語だ。この映画のナンシー梅木の相手役であるレッド・バトンズも助演男優賞を受賞した。(今年、20世紀フォックスでDVD版が発売され、2月16日4時30分にはWOWOWで放映された。)
それでは、ナンシー梅木とは、一体何者なのだろうか?本名は梅木美代志で、1929年に小樽で9人兄弟の末っ子として生まれた。クラシック音楽のレッスンをうけ、進駐軍キャンプでジャズを歌ったのが芸暦の始まりで、1948年に上京し、1950年代に日本のジャズ歌手(ボーカル)の草分けとしてジャズバンド(ゲイ・セプテットなど)で活躍し、ミュージカル映画にも出演していた。1952年に、(石井好子、ディックミネ、ペギー葉山たちの活躍の場でもあった)横浜の米軍キャンプ「シーサイド・クラブ」の専属となる。音楽の勉強のために、1955年に渡米し、クラブなどで歌うかたわら、CBS系のテレビショー(タレントスカウト番組)に出演し、着物姿で英語の歌を歌い優勝し、注目を浴びた。Miyoshi Umekiの名前で、2枚のLPアルバムも発表している。オスカー受賞の後、1958年にブロードウェイミュージカル「Flower Drum Song」(ロジャース&ハマースタイン作品)に出演し、トニー賞の最優秀ミュージカル女優賞にノミネートされてもいる。1960年代にも映画に出演し、1970年に(連続TV部門)助演女優賞を受賞し、1970年代にはTVドラマにレギュラー出演していた。その後、1968年に再婚(初婚は1958年)していた相手の死(1976年)の後は、芸能界から引退しているそうである。このような経歴からして「Nancy Umeki」は、戦後の日本ジャズ界の女性シンガーとして、まずは記憶しておくべき名前のようなのだが、日本の映画関係の記者(レポーター)には、ジャズファンはいなかったようで、こうした言及はまったくなかった。