3グロ−バリゼ−ションとは何か?
グロ−バリゼ−ションとは何か?英語のグローバリゼション(globalization)の用語は通常、経済グローバリゼーションの用語と密接に結びついている。貿易や対外投資、資本の流れ、移民、テクノロジーの移転、軍隊の存在を通じて、各国の国民経済を国際経済に統合することなのである。効率のよい国際分業を通した物質的な富や商品やサービスの増大を目的とし、関税や輸出課徴金や輸入割当などの国際貿易への障壁を減らすことで、世界の経済秩序の統一化を増すことを意味しているのだ。
他方でグローバリゼ−ションとは、通信や交通や輸送や貿易を通して、地域の経済・社会・文化が統合されてきた過程を記述するものでもある。グローバリゼーションは、経済的・技術的・社会的・文化的・政治的・生物的な諸要因の組み合わせによって推進されていると認識されてもいる。さらに文化変容を通して思想や言語や文化が国家を越えて流布することも意味しているのだ。
この映画では、「グローバリゼーション」を以下のように定義している。
- ビジネスや銀行が地球規模に事業展開できるように貿易・通商や財政・資金調達などの規制緩和をすること。
- 多国籍企業の支配する単一世界市場が出現すること。
- ただし、国際協力(international collaboration・相互依存(interdependence)・国際社会(global community)としばしば混同されている。
グローバリゼーションは、今日、世界を変化させる強力な原因の一つであり、世界中の社会に影響を与えている。グロ−バリゼ−ションによって、世界の人びとの距離が近くなり、コミュニケ−ションや旅行がしやすくなるので、グローバル化の経済活動は、未来の大きな希望であり、特に世界の貧困問題の解決策だと考えている人も沢山いるが、この映画では、グロ−バリゼ−ションの核心は、経済過程であり、規制緩和・自由化(deregulation)だと捉えており、今日私たちが直面している多くの諸問題の根本原因であり、進行中の脅威だと見なしている。「利益」に焦点がある大手銀行や大企業が世界中の地域経済に「自由に」参入し、競争や分裂を加速させているのではないかと捉えているのである。
こうしたグロ−バリゼ−ションは、約500年前にヨーロッパで始まった急速な膨張主義・拡張主義(expansionism)にさかのぼることができ、植民地主義の形をとってきた。現代の新植民地主義は、「援助」パッケージというローン(負債)の形をとって(途上国の)国家の貧困化を生じさせているが、一見そうとは認識できないようになっている。植民地時代の商人の末裔である現在の多国籍企業や金融機関は、資金や財源や安い労働力を入手しやすくなっており、大いに発展成長し、事実上国家政府を支配し、経済政策に影響を与え、人びとの世論や世界観をも形作っているのだ。
大企業はグローバリゼ−ション/規制緩和/自由化を求めており、商品や金融のグローバル貿易は拡大し続けている。映画では、こうしたグローバリゼーションについて、「グロ−バリゼ−ションについての8つの不都合な真実」として、以下のようにまとめている。
グローバル経済の8つの不都合な真実(7)
①人を不幸にする(グローバリゼーションは私たちを不幸にする)
欧米で増加している、うつ病。物質的な豊かさだけでは人は幸せになれないことを、アメリカの世論調査が示しています。その調査では、「非常に幸福」と答えた人の数は1956年以降、年々減少中。(映画パンフ参照、以下同様)
ここでは、グローバリゼーションが私たちの日常生活の全ての面に深く関与していることが語られている。英米の精神科医や心理療法士などの言葉として、西洋におけるうつ病の増加、消費イメージにおけるフラストレ−ション(欲求不満)の高まり、過剰労働によるストレスの増大が触れられ、物欲のプレッシャーは幸福をもたらさないと、指摘されている。物質的な豊かさがコミュニティを蝕んできて、グローバリゼーションが独りぼっちの人間を作り出している、と語られ、幸せな人とはこの世で自分が1人でないことを知っている人であることが述べられている。つまりここでの「不幸」とは、孤立のことであり、この孤立がグローバリゼーションによってもたらされている、と指摘されているのだ。(ヴァンダナ・シヴァ参照)
②不安を生み出す(グローバリゼーションは不安定を産み出す)
企業は人々に最新の商品購入を促します。その消費行動からはねたみと差別化が生じ、つながりや愛は生まれません。「アメリカへの価値観を模倣している」とリチャード・ハインバーグは指摘しています。
近代の消費者資本主義以前には、人びとの自分らしさの感覚は主に共同体や近隣関係を通じて形成されてきたが、現代では企業やマ−ケティングや消費生活がアイデンティティのパッケージ商品を用意してくれ、こうした商品を購買・消費することで「自分らしさの感覚」が作られている、と指摘されている。企業は、子どもの「育ての親」として子どもたちの欲望(欲しいもの、食べたいもの、買いたいもの)を育成し、若者たちはピアグループ(仲間集団)のプレッシャーから、最新の商品やブランドもののファッションやファーストフードを「カッコよく」購買するが、こうした消費行動は、自分たちの自己肯定感やつながりの感覚ではなく、逆にねたみや分離や不満や競争心しかもたらさないのである。若者たちは自分の母語や文化や地域や農業を拒絶するようになり、「アメリカ」のライフスタイルへの憧れという欲望に魅せられてしまっているのだ。(クライヴ・ハミルトン参照)
③自然資源を消費する(グロ−バリゼ−ションは自然資源を浪費する)
消費主義を押し進めると、生態系が破壊され自然資源は限界に達します。しかし、現状の経済システムはより多くの消費を人々に促し続けています。これ以上工業化が進むと食糧難や飢餓を招き、人類滅亡の危険性も。
グロ−バリゼ−ションが促進する消費文化・消費主義は、資源集約型の都市化と相まって、大量生産/大量消費の工業化のために、大量の再生不能な自然資源を消費し続けている。これは、地球全体の生態系によくないことが起こる前兆となっているのだ。都市化は、インフラの整備、食料・水・エネルギーの供給、ゴミ処理という問題の解決のために、自然資源の消費を促している。しかし自然資源の消費やサプライ・チェーンの供給量は限界に達している。「もっともっと」の消費社会の先には、生態系の崩壊、世界的な飢餓や飢饉、そして種の終焉も見えるのだ。(リチャード・ハインバ−グ参照)
④気候を激変させる(グローバリゼーションは気候変動を加速する)
不透明な補助金やゆがんだ規制によって、遠方の品物が近くの品物よりも安いことが多々あります。アメリカでは、同じ品目の輸入量と輸出量がほぼ同量になるという現象が起き、環境破壊が進んでいます。
グローバリゼーションの論理は、生産者から消費者への製品の長距離輸送を要求する。国家の隠れた補助金やゆがんだ規制のせいで、はるか遠方からの品物の方が地域産の品物よりも安いことがよくある。穀物・肉類・家畜・缶詰めの食料および廃棄物などありとあらゆる種類の製品が毎日地球上を行き来している。経済成長を促す自由貿易協定による国際貿易の結果として、今日の国々では同じ製品の輸入量と輸出量がほぼ同一となっている傾向がある。この国際輸送システムは、不経済であり、多くの無駄がある。こうした製品の国際輸送システムが、世界のCO2排出量の増加の要因なのである。(ザック・ゴールドスミス(8)参照)
⑤生活を破綻させる (グロ−バリゼ−ションは暮らしを破壊する)
現状のグローバル経済は、失業者を生み出しています。特に小規模農民は、現在の開発モデルが都市化を促進しているため、農地での仕事量が減少。インドでは10万人の農民が自殺に追い込まれています。
グローバル経済は、カジノである。潜在的敗者である私たちのうち、一番の敗者の例が失業者である。世界の人びとの暮らしが脅威にさらされており、賃金労働をすることさえ困難になってきている。第一の犠牲者が小規模農民だ。グローバル経済の開発モデルは都市化を促進し、農民の数を減少させている。土地から引き離され都市に追い出された農民たちは、安価な労働力か失業者にならざるをえないのだ。使い捨ての人になることは、人間の最大の危機なのである。
⑥対立を生む (グローバリゼーションは対立を増大させる)
貧富の差を生じさせるグローバリゼーションは、選択肢のない人々を追い込みます。結果、テロリズムが生まれるのです。ラダックでは、かつて共存していた仏教徒とイスラム教徒の争いが生まれました。
都会に押し出された農民たちは、多様な民族的・宗教的背景の下で、希少な仕事を求めて競争を始める。かつては容認され共存してきた多様な差異が、ここでは脅威・原理主義・紛争の原因になる。都会で自分たちの言語・ルーツ・歴史を破棄してしまうと、人びとは「誰でも無い人」になってしまうのだ。グローバリゼーションは、世界を見る見方を同一化し、一つの世界観しか持てないようする。私たちの社会の多様性にとって危険な状態である。グローバリゼーションは、貧富の差を作り出し、失業者を量産し、競争を激化させ、死活問題で選択肢の無い人を生み出し、その結果として摩擦・対立・暴力・不和・殺しあい・テロリズムが生じるのである。(ケンツェ・ノルブ・リンポチェ監督参照)
⑦大企業へのばらまきである(グリーバリゼーションは大企業への施し物(=補助金)の上に築かれている)
例えば政府の援助なしに、原子力発電の開発はできません。多額な税金が企業に投入されているのです。また、中小企業にとって不公平で負担のかかる規制緩和が世界レベルで急速に進展しています。
グローバリゼ−ションは、止めることができない、自然過程のようなもので、自由市場によって導かれている、と一般に思われている。どの政党も、自由市場の力と価値には同意しているようである。しかし、実際には本当の「自由市場」など存在していない。自由市場は、大企業本位の「効率」尺度によっているのだ。国家からの補助金が無ければ、原発も存在できないし、多額の援助金が大企業の継続のために投入されている。政府からの援助金無しでは、現在のグローバル経済は維持できないのだ。また大企業への支援は、貿易や金融の規制緩和の増大を通じてもなされている。グローバル経済では規制緩和の結果として多国籍の企業や銀行が地球規模で「自由に」営業している。他方で国民経済では規則一点ばりのお役所的な官僚制があり、中小規模の企業には不公平なのである。国際的な金融協定や貿易協定の「自由市場」では、投機が王様で、地域の人びとは貧者になる。(アンドリュ−・シムズ参照)
⑧誤った会計の上に成り立つ(グローバリゼーションは偽りの会計・経理に基づいている)
社会はGDP(9)を成長させようと必死になり、豊かさをGDPで測っています。石油の流出や水質汚染、戦争の発生、ガンの増加などでGDP値が上がるのです。現在の経済成長や人間の活動は限界を越えています。
政策立案者は、経済成長の拡大のためにグローバル経済を促進している。経済・政治・文化・社会システム全体が経済成長/GDP成長に焦点が当たられている。どんな問題(貧困・失業・環境など)も、経済成長の拡大によって解決できるかのようである。しかしGDPを社会進歩の尺度として用いることには、疑問を呈することができる。GDPは、原因がなんであれ(水質汚染や石油流出への対策費用、戦争の戦費、ガンの治療開発費など)貨幣の交換(つまり消費)に関われば、バランスシートはプラスに上昇するのである。検討すべきは、経済成長の指標ではなく、成長概念それ自体なのである。(ダニエル・グリーンバーグ、デビッド・C.コーテン、マイケル・シューマン参照)
人類の活動は今や地球の限界を越えている。有限の地球(資源)で、無限の経済成長はありえないのだ。地球環境はこの20年間悪化し続けている。一方で大企業は「グリーン経済」(環境に配慮した経済)を推進していると大金を費やしてコマーシャルで消費者を説得しているのだ。表面的な解決策は、一般大衆にも広がっている。消費者個人の行動の変化が強調されているのだ。たしかに個人でできること(環境に優しいエコ製品の購買など)は沢山あるが、「私たちは個人的に問題を解決できる」が結論ではないのである。「社会としての解決」に関して何かをしなければならないのだ。現行の社会システムを駆動している大企業は、巨大な政治権力を持っているのである。
実のところ、どの制度であれそれに権力を付与しているは、私たち市民である。私たちがその権力の正当性を認めているので、私たちがその正当性を頓挫させるならば、その権力も喪失するのである。経済成長の妄想に取り付かれていない経済を考える必要がある。「新しい経済」の目的は、利益を最大にすることではなく、質の高い、満足のゆく仕事を供給し、人々が本当に必要とする商品やサービスを生産することである。
1972年にブータン国王は、国民総幸福量(Gross National Happiness、GNH)という「尺度」を提唱した。国民総生産(GNP)などで量る金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、心理的幸福や精神的豊かさを目指す国家の開発政策の概念を作り出したのだ。経済成長率や消費や所得が高い国の人は本当に豊かで幸せなのか。他者とのつながり、自由時間、自然とのふれあいなどが人間の安心な生活の不可欠の要素なのではないかと、考え直した世界中の経済学者たちが、幸福や繁栄について、もっと意味のある測定法を開発し始めたのだ。そのような尺度の一つに、GPI(Genuine Progress Index)がある。
GPIの目的は、生産物や物質的な富だけでなく、人間の社会コミュニティや自然環境の富についてももっと正確に包括的に測定することである。実際、GPIは社会的・環境的・経済的な利益と費用(コスト)の全てを測定する指標なのである。遠く離れた所から輸送されてきた商品は地元で生産された商品よりもはるかに費用(コスト)がかかることを理解し始めたのだ。
現行のシステムでは、生産と消費の距離が増大し、人々と政府権力の間の距離も増大している。経済のグローバリゼーションは、こうした増大に責任があるのだ。経済のグローバリゼーションによるこうした諸問題に対する打開策として、この映画では、ローカル経済への転換を提唱している。今こそ、政治・経済・文化・精神をローカル化し始めるべきであり、ローカリゼーションを始める時なのである。意味のある経済があるとするならば、それはローカル経済なのである、と指摘している。