前回見て来た日本の家族普遍論的な家族観のルーツはどこにあるのでしょうか。一見ごく当たり前の当然の普遍的な家族観は、実のところ自然でも当たり前でも普遍でもなく、近代社会が作りだした「近代家族」に非常に類似しているのです。この「近代家族」観を現代の日本社会は普遍的で自然で当たり前と見なして、それに基づいてさまざまな社会制度を構築してきたのです。
ここでいう「近代家族」概念は、これまで日本語で理解されてきた近代家族と多少意味合いが異なっていることに、まずは注意を喚起しておきます。これまでの日本語における近代家族とは、戦前の家制度=家父長制的な(封建的な)イエと対比する形で、理想的な民主的な「近代的な」家族のこととして一般的に理解されてきたのです。戦後に日本国憲法/民法の改正をした日本は、戦前のイエ制度を廃止したのであり、この戦後の夫婦と子どもを中心とした「民主主義」的な核家族について、欧米風の理想的な民主的な家族として「近代的な」家族観を理解し、この家族観を普遍的なものとして想定してきたのです。したがってこれまでの日本語における近代家族は、理想的な民主的な普遍的な家族であり、問題視されるべきものではないとされてきたのです。いまでもこの家族観は余り変化していないのではないでしょうか。
上記で述べた「核家族」とは、夫婦と子どもからなる家族のことで、家族を構成する最小構成単位となり、この家族の最小構成単位としての核家族が、他のものと組み合わさってさまざまな形態の具体的な家族をつくると学問的「家族」論ではされていたのですが、日本語で言われる核家族とは、「核家族」が家族の典型であり、核家族「世帯」のことを普遍的な「家族」として、家族の典型とみなしてきたのです。
かくして、戦後の日本の「家族」観において、このような典型的な「家族」観は、それ自体が自然で普遍で不変だと考えられており、「家族普遍論」を大前提に議論が展開されてきたのではないでしょうか。これは一般の人たちだけのことでなく、いわゆる社会科学の専門家たちの中にも広く浸透した「家族」観になっているのです。
「家族普遍論」の家族観は、次のような基本仮説を大前提にしているのでしょう。
- 家族は人類社会に普遍的に存在する
- 家族は歴史や文化差を越えて変わらない本質を持つ
- 家族は集団である
- 家族はおもに親族よりなる
- 家族成員は強い情緒的絆で結ばれている
- 家族の最も基本的な機能は子どもの社会化である
- 家族成員は性別により異なる役割をもつ
- 家族の基本型は核家族である
日本の家族普遍論的な家族観のルーツは、普遍論としては矛盾しているのですが、実のところ、戦後の日本の歴史的/社会的/政治的/法律的/文化的な状況にあるのです。ある種の家族観を普遍的な家族と見なすことによって、家族普遍論は成立しており、とにかくこの家族観は、どの時代においても共通した普遍的な本質をもつという理解によってだけ支持されてきたものなのです。