近代社会の結婚観において「結婚の目的」とは何なのでしょうか。「結婚」とは、何のためにするものと考えられているのでしょうか。結婚する目的は、確かにさまざまでしょう。
たとえば女性なら、お金、生活費の保障、食べさせてもらう、楽(ラク)したい、種の保存、本能、子供を産み育てる、専業主婦になりたい、パートナー(生涯伴侶)の獲得、一緒に居たい、頼れる人のゲット、父母のようになりたい、父母への感謝、親の幸せのため、親に対する義理、幸せな家庭を築く、子供の時からの自分の夢の実現、結婚式をあげたい、好きだから、恋愛の成就、「愛」の実現、目的なんて無い、日本人として当たり前、女性として当然のこと、「女」の落ちこぼれにならないため、安心感を得たい、付き合ってることの成れの果て、「出来ちゃった」の流れ、産んだ子供の幸せのため、世間体、周りがうるさいので、結婚のための結婚、独りは寂しいから、老後の不安の解消などなどと答えるかもしれません。男性なら、「嫁」の確保、世間体、「男」の証明、「所帯」を持つ、「一家」を構える、「男」としての義務を果たす、性別役割の男の役割を遂行するため、安定的なセックスのため、身の周りの日常生活の安心、社会で「一人前」と認められるため、社会的信用を得るため、子孫繁栄のため、子供の親になるため、相手の幸せのため、共同生活のため、内助の功を得るため、自分のセクシュアリティのカモフラージのため、伴侶を得るためなどなどと(女性たちより多少抽象的に)答えるかもしれません。
結婚の目的について考えた場合、男女双方のどのような答えであれ、おそらく「結婚して家族をつくる」という意識が、大前提になっているのではないでしょうか。人生の目的は、恋愛して、相手を見つけて「結婚」した後に子供を作って、幸せな家庭を築くことだと、理屈以前の自明のことだと考えている人が、皆婚主義の社会では、大半なのではないでしょうか。「恋愛」感情を抱いた恋人と「結婚」して、自分を生んでくれた親たちと同じように「家族」を再生産することは、人間として当たり前のことで、人類の営みとして自然で当然で不変のことだと思っているのでないでしょうか。
しかしながら近代社会の結婚観を検討する際に、「結婚の目的」とされる「家族をつくる」の「家族」が、一体どのようなものとして、考えられているのかを考察することは、とても大切なことです。こうした「家族」観について詳察してみると、二つの近代社会(欧米と日本)に存在している多くの差異に気づくはずです。
日本社会における「家族」とは、世界中どこでも、またどの時代でも、結婚して成立する夫婦中心の普遍的な集団であり、社会を構成する最小(基本)単位であり、歴史上さまざまな家族制度はありますが、人類誕生から継続している(種の保存を可能にしている)不変の普遍的な集団形態であり、これからも人類が続く限り存続する未来永劫のものだと、考えられているのではないでしょうか。つまり、家族普遍論が大前提になっていると思われるのです。ところが「プロポーズはしない」と歌っていた70年代のフランスでは、こうした家族普遍論的な家族観に対抗して、家族概念は実は「近代」に形成されたものに過ぎないという「近代家族」論が提起されていたのです。「家族」は普遍的な概念でなく、近代に形成された「近代家族」でしかなく、近代と共に終焉する集団概念であることが提唱されていたのです。つまり近代社会で結婚の目的とされた「家族をつくる」の「家族」が、普遍概念でないことが解明され始めたのが、70年代の欧米社会だったのです。