私は、社会学を専攻しており、大学で「社会学」科目を教えております。「社会学」は、研究対象が余り理解されてなく、とりあえず分かったような、分からないような「社会についての学」という説明でお茶を濁しておりますが、より詳細にはこの「社会」とは近代社会のことを指しております。それで私自身は「社会学とは、近代社会の自己省察の学である」という考えを採用しております。自己省察とは、近代社会が近代社会それ自体を省察(省みて考えめぐらすことを)するという意味なのです。近代社会という社会は、その社会自体が自分自身(近代社会)を省みて、近代社会について考えをめぐらすことを行う性質をもっているのです。日本社会は、明治政府の時代から、この近代社会になろうと、これまで尽力してきた歴史的経緯があります。
さて、この近代社会において「結婚」とは何なのかについて、省察してみたいと思います。この省察を始めるにあたって、多少に寄り道ですが、ある種のフォークソングに注目してみたいと思います。
日本のフォーク(ポピュラー音楽としてのフォークソングは「フォーク」と略称されることが多い)は、60年代のアメリカンフォークから影響を受けたプロテストソングとして展開してきました。こうした反体制のシンボルとしてのフォークが、若者のポップ・ミュージック(ニューミュージック)として一般的になるに当たっての第一人者が、70年デビューの吉田拓郎であり、72年の大ヒット曲「結婚しようよ」(40万枚以上)があります。(作詞/作曲 吉田拓郎 編曲 加藤和彦 結婚しようよーYouTube 参照)「僕の髪が肩まで伸びて、君と同じになったら、約束どおり町の教会で結婚しようよ」というあの歌です。1960年代の「恋愛結婚」の普及を受けた1970年代の時代を反映した歌とされています。確かにこの歌詞には、既成の男女観を覆すイメージがあったが、「私生活主義」の消費者のニューファミリーの前兆でもあったのだ。
同じ頃、1968年の5月革命(パリの学生運動から始まり、労働者のストによってフランス社会の改革を求めた大衆運動)後の70年代のフランスにおいても、ひとつのフォークソングが大ヒットしていた。「プロポーズはしない」という歌だ。「君に結婚のプロポーズはしない、二人の名前を婚姻登録簿に書くのはやめよう、恋人よ、愛する人よ、いつも君を想っている」と歌っていたのです。当時、サルトルとボーヴォワールの「自由恋愛」という実存主義的非婚観が注目されておりました。(映画「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」2006年、参照)
さて、この二つのフォークソングのヒット、日本の「結婚しようよ」とフランスの「(結婚の)プロポーズはしない」は、その後の20世紀における二つの近代社会(欧米と日本)における結婚制度(男女関係)の変遷を示す象徴になっているといっても過言ではないと思います。次回から、そのことを詳しく述べていきたいと思います。