やってくる「ケア社会」において、「マイノリティ」をどのように位置づけたらいいのだろうか。まず大事なのは、マイノリティ概念を「実体」ではなく「関係」として理解できる人を増やさなければならないことだろう。実体概念(substance concept)とは、実体を表す概念であり、実体とは「他のものに依存せずにそれ自身で存在するもの」、実際に見ることができるモノのことである。関係概念(relational concept)とは、物事の関係を表す概念のことであり、関係とは「実体と実体の間の関係」と考えられてしまうが、そうではなく最初から「他のものに依存せずにそれ自身で存在するもの」があるのではなく、そのモノを構成する物事が関係なのである。モノの存在を、独立的・自立的存在と考えるのではなく、関係性の中の結節点として捉えているのが、関係概念である。
「マイノリティ」を実体概念として捉えた実例は、現状の国語辞典などに載っている定義に見出すことができる。例えば、「minority=少数派、少数者、少数集団」、「minorな、マイナーな、重要でない、小さな、弱い部分」、「マジョリティ=majorityの対義語」などである。ところが、実体概念でなく関係概念として「マイノリティ」を捉えると、マイノリティは実体としての「少数」や「取るに足りない者」や「弱者」ではなく、社会・支配・権力関係において特権が剥奪されている立場のことだと考えることが可能になる。逆にマジョリティは、関係概念として捉えると、社会・支配・権力関係において特権を自明視できる立場のことだと考えられるようになる。つまり、偏見や差別や憎悪や搾取の対象とならないことが自明視できる立場だという理解である。そうすると数としては少数であっても、特権階級の人々は、マジョリティだということになる。
それでは、この「マイノリティ」の問題を、日本社会の様々な場面で昨今、関心を集めているセクシュアル・マイノリティの問題に当てはめて考えてみることにする。
「セクシュアル・マイノリティ」とは、最近よく目にする説明としては『英語のSexual Minorityの日本語訳である。性的少数派、性的少数者、性的マイノリティと称されることもある。一般的に女性同性愛者・男性同性愛者・両性愛者・性同一性障害者(LGBT)などのこと。「セクマイ」と略されることもある』などがある。より詳しい説明として、「何らかの意味で性のあり方が非典型的な人のこと」、「セクシュアリティにおける少数派のこと」、「LGBTは、Lesbian、 Gay、Bisexual、Transgenderの頭文字の頭字語である」などが続くこともある。またLGBTは、性的少数者のカテゴリーの総称であるが、他のバリエーションも加えて、例えばLGBTQが使われる場合もある。この場合、最後のQはQueerあるいはQuestioningを意味している。他に加えられる頭文字に、I(Intersexual), T(Transsexual), A(Asexual or Ally), P(Pansexual)などがある。
こうした説明を目にすると、多くの人は実体概念としてセクシュアル・マイノリティを理解してしまうだろう。つまり、性的少数者のことだと。また説明の中に出てくる単語に関しても、すべてを実体概念として理解してしまうにちがいない。同性愛者、LGBT、性、セクシュアリティといったひとつひとつの単語を。ところが、実体概念ではなく関係概念としてセクシュアル・マイノリティを理解すると、関係的意味が把握できるようになってくるのだ。例えば、英語のSexual Minorityとカタカナの「セクシュアル・マイノリティ」には、意味の相違があることに気づくかもしれない。異なった言語間の翻訳には常につきまとう問題だが、日本語で特に顕著なのは、カタカナ表記した外来語と原語の間に、大きな意味のズレが生じてしまう問題である。
英語のSexual Minorityには、この言葉の意味が変化してきたという歴史があるが、日本語のセクシュアル・マイノリティには、英語のような歴史は存在せず、日本語の中に突然カタカナ表記の言葉が登場してきたにすぎない。またLGBTも、実体概念ではなく関係概念として理解していくと、英語のLGBTには、国連を含んで英語圏における意味の変遷の歴史があることがわかってくる。
最初からLGBTという言葉が、英語の単語として定位置を占めていたわけではない。この言葉をめぐる当事者を含めた様々な人たちの強い働きかけの運動の結果として、LGBTという言葉が英語として、一応定着したのだ。ところが日本では、頭字語のLGBTがいきなり使われ始めてしまった。もしも関係概念としてこの言葉を理解できたなら、日本で使われているLGBTが、英語のLGBTとは意味が異なっていることがわかってくるはずだ。また日本では、LGBTが実体概念として理解されているので、それぞれの頭文字の意味である「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」も、侮蔑的な意味が込められた実体概念として理解されていることがわかってくるだろう。
関係概念としての「セクシュアル・マイノリティ」は、<セクシュアリティ>に関する社会・支配・権力関係において、特権が剥奪されている立場のことだと理解できるのだ。<セクシュアリティ>を、実体概念としての「性」に還元して理解してはならず、<セクシュアリティ>を関係概念として理解することが大事なのである。
ここで「性」に還元されない<セクシュアリティ>とは何なのだろうという疑問を持った人は良い方向にいるのかもしれない。関係概念としての理解の初めの一歩を踏み出しているのである。近代以降、日本語には実体概念としての「性」しか存在しておらず、関係概念としてこの言葉を理解する用法がないのだ。ではどうしたらいいのだろうか。
急がば回れで、「セクシュアル・マイノリティ」ではなく、その対義語とされる「セクシュアル・マジョリティ」に焦点を移してみることにしよう。とすると「セクシュアル・マジョリティ」が、<セクシュアリティ>に関する「社会・支配・権力関係において特権を自明視できる立場のこと」「偏見や差別や憎悪や搾取の対象とならないことが自明視できる立場のこと」だと考えることができるようになる。近代社会では、こうした立場を実体概念としての「男女のセックス」として表現してきた。セックスする男女は、当たり前のことであり、偏見や差別や憎悪や搾取の対象とならないことが普通だとされてきたのだ。この特権性・自明性を疑うところから関係概念の理解が始まるのだ。「ケア社会」に向かうために、こうした関係概念から様々な「マイノリティ」現象を見直してみることが必要だろう。
ミクシテ21号「ケア社会がやってきた—3−」